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教育に関すること

2013.12.25 Wednesday[教育に関することcomments (0)

この分野を広義において非物質的文化というが、現在この教育というものが、時代とともに変化しているのは言うまでもない。
世界各国でその教育というものが、文化の発達の速度感にも大きく異なり人々の価値観も異なる。ヨーロッパでは文化スピードが比較的早く行われ、ゆっくりと日本に渡ってきた。
先進国である日本では、今深刻な問題が先進国の中でも自殺者が一番多くあり、政府がうつ病対策を施そうとしたのはつい最近である。
物質的文化の成長は第二次世界大戦後、急速に伸び、その速度は世界的にみて尋常ではないぐらいのスピードなのである。このスピードは一つの敗戦コンプレックスではないかと私は考えています。元々、農耕民族である日本人はこつこつと努力型の民族であり、昔は村組織といて機能を果たしてきたため、もし、その中で、違うことをする人が出てきたなら、強いバッシングなど余儀なくするのであったため、平均的な人間を輩出することがある意味この国を支えてきたかもしれません。
こつこつ努力することは、非常に素晴らしいこと。しかし、そのこつこつが時と場合によると最近では疑問視する。心理学的にみんなと同じことをするのが、安全パイかもしれない。しかし、みんなと同じことをすることが果たして良いことなのかも疑問である。
標準値ばかりを育てるのは悪く言えば、凡庸である。平均から下回る、もしくは上回ることを標準化させるのは、人間そのものを、または人間性そのものを損なう危険が孕んでいるかとも考えます。
主体性とは自由そのものでなく、自分のアイデンティティを確立にあると考えています。この社会というものが多数の人間の意見の一つの塊であり、絶対的にあるため自分は自分だ!という強い想いを持つ人間に対しては路線に逸れる可能性がでてくる。
しかし、みんなと違う意見を言うには少々勇気がいる。堂々として自分の意見を反映するのは、論破しなければならない。論破する人間が少なくなっているのも現代に見られる現象。
自分の思うところを言うのに懸念しているのはどうでしょう。
決して、目立つことではなく、みんながHappyになることを考えれば、何も恐れることはないのだが、どうしても流されやすくなる。思うことを言い易い人を選び、言いたくない人には言わない。それで良いのでしょうか。言いたくない人にも良い易い人にも同じように接することが肝要ではないでしょうか。これも心理的に自分を責められたくないから、本能的にそうなるのかもしれない。そもそもコンセンサスとは無理やり同調させることでない。
日本の美学たるものは、堪える、忍ぶものである。素晴らしいことですが、それも時と場合にもよる。日本の教育では短所を直し、長所を先に伸ばすことが大体後回しになることが多い。では短所を直さない方が良いというわけでもないが、長所を最大限に伸ばす方が良いのではと考えます。極端な話サヴァン症候群の人はこれに該当できず、短所はほぼ直せれない。
教育とはある意味一つの枠にはめていくことであり、そこには自分自身が納得する、あるいは、受けざるを得ない。教育者はその良心が求められる。学問とは永久であって終わりはない。ある一定のところまで達成すれば良いと思えば、それまでである。
そこで、得た者はそこからどう社会で適応していくかも自分次第。
学ぶにあたっては、想いがなかれば本物にならないと考えます。単なる記憶は記憶だけに過ぎない。好んで記憶すれば万事休すだが、大概は嫌なことも記憶しなければならない。
好きなことだけに没頭し学ぶのが学者であり、それで生活が問題なければ良しだろう。
例えば、名称だけが欲しいために学ぶのは、本当に身になるのだろうか。
それは名誉欲しさにしか過ぎないと似たもの。
私たちは、自分のやりたいことやしたいことを余儀なく学習としてやらなければならないこともある。では何が善で何が悪かも分からない。少なくとも教育にある立場の人間は、優れた良心というものがなければならないと考えます。フロイトは物事や何かをしようとする時に無意識に行われるという。この無意識の中に超自我というものが働き、善悪を判断していく。超自我が大切なのだと考えます。それは環境の影響よりもむしろDNAの影響がほとんどである。となると環境因子は影響されるのは難しいことかということになる。しかしながら環境因子だけでは限界がある。
それは教育であり、如何に環境でどこまでできるかが大切な問題だと考えます。
マズローの自己現実の欲求が最高値ではあるが、そこに到達した人はいったいどれだけの数がいるのでしょう。そこが云わば、自己満足で終わるならそれで、最高値でしょう。
客観的な結果が出てからこそ、自他共に最高値を経験するのではないかと考えます。
いずれにしても、教育というものが永遠の課題でもあり、時代と共に変化しなければならないし、そこには良心という結晶が必ず必要と切に考えるのである。
続く

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