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強迫行為と宗教儀礼

2014.02.13 Thursday[強迫行為と宗教儀礼-

神経質症者の行ういわゆる強迫行為と、信仰者が自らの信心深さを証すために行うお勤めとが類似していることに気づいたのは、なにも私がはじめてではない。これらの強迫行為のある種のものには儀式という名前が被されてきたが、その名前からしてすでにこの両者の類似を裏付けしている。とはいえ、どうやらこの類似は、たんに表面だけにとどまるものではないようである。神経症の儀式がどのようにして生まれるのかが洞察できれば、そこから、宗教生活で生じている心の出来事の何たるかも類推できるようになるかもしれない。
強迫行為ないし儀式を行っている人たちは、強迫思考、強迫表象、強迫衝動の類いに苦しんでいる人たちとともに、特別の臨床単位に括られており、その疾患は通例強迫神経症という名前で呼ばれている。しかし、病名からこの病気の特性を導き出そうとするのはやめたほうがよいだろう。というのも、厳密にいうなら、これとは別種の病的な心の諸現象も、これと同じいわゆる強迫的性格なるものをもっているとみるべきだからである。おそらくは深いところにあると考えられる強迫神経症の診断基準が、これまでまだしかと明示されていない、われわれは、この病気の外観のうちに、いたるところにそうした基準が見えると誤って思い込んでいるにすぎないわけだから、さしあたりはまた定義することを控え、これらの状態についての細やかな知見でもって、それに代えなければならない。
神経症儀式の本質は、日常生活の中である特定の行為がなされる際に、常に同じか規則的に変更されるやり方で実行される細々とした勤め、付随業務、制約、指示にある。われわれからすれば、これらの活動は、単なる形式遵奉にすぎないように見え、そこにはまったく何の意味もないように思われる。その点は当の患者自身にとっても変わらないのであるが、いかんせん、患者はこれをやめることができない。なぜなら、儀式をわずかでも怠れば、罰として、堪えがたい不安に襲われ、すかさず不履行の償いが強いられることになるからである。儀式行為そのものと同じく、儀式の始動や所作も細々としており、例えば服の着脱の仕方や床への入り方、あるいは様々の肉体的欲求の満たし方などのように、儀式によって粉飾され、やりにくくされ、いずれにしせよ手間隙のかかるものとされている。ある儀式の実行のさまを記述するには、これをいわば一連の不文律のようなものとして扱わなければならない。
例えば就眠儀式だとこんなふうになる。いつもの肘掛椅子はベッドの前のきまったかくかくの位置に置かれていなければならず、その上に衣服が決まった手順でたたまれていなければならない。掛ける布団は足元のところで差し込まれていなければならず、シーツはきちんとしわがのばされていなくてはならない。クッションは決まった位置に配置され、身体そのものも決まった姿勢になっていなければならない。こうしてはじめて睡眠に入ってよろしいというわけである。このような儀式は、軽度の場合なら、普段から習慣となっている当然の規律のやや度を過ぎたくらいのものと映るだろう。しかし、この儀式は、実行の際の特別の細心さ、履行しなかったときに襲われる不安を特徴としており、いわば聖式になっている。聖式というものは、大抵は、邪魔が入ることに我慢ならないし、またほとんどの場合、公開、つまり実行中に部外者が居合わせることを許しはしないのである。
いかなる所作であれ、細やかな付随義務で粉飾され、休止と反復のリズムをつけられると、広い意味での強迫行為と化してしまう。儀式を強迫行為と分かつはっきりとした境目などもとより望むべきもなかろう。大抵の場合、強迫行為は儀式に発したものだからである。この儀式=強迫行為にならんで、強迫神経症という病の内容をなしているもう一つのものは、禁止=阻止(無為)である。実際のこの禁止=阻止は、あることを病人にそもそも許さなかったり、また別のことを、規定の儀式を遵守した場合にのみ許すことによって、強迫行為の仕事をひたすら続行してゆくとなっているのである。
注目すべきは、この強迫も禁止も(一方はせねばならぬ)、他方は(してはならぬ)ともに、当初は、人間の孤独な所作にのみ関わり、長い間社会的態度を損なうには至らない。そのためこの種の病人は、長年にわたって、自らの病気を私的なものとして扱い、秘め隠しておくことができる。事実、医者が把握しているよりはるかに多くの人が、そうした形の強迫神経症に苦しんでいる。さらに言えば、多くの病人は、メリュジーヌのように人気のないところに引きこもって何時間かを秘め事に捧げたあと、一日の幾分かを社会的義務の遂行にあてるくらいの余裕は十分残しており、そのため病気を世間に秘めておくことが容易になってもいる。神経症儀式と宗教的典礼の聖典との類似点がどこにあるかは人目瞭然である。
すなわち、不履行の際の良心の不安、他の全ての行動からの完全なる隔離(妨害の禁止)、細部を実行する際の細心さといった点である。しかし、両者の相違も同様にはっきりしており、そのいくつかは、比べること自体が冒涜といえるほど際立っている。
すなわち、典礼(祈祷や跪拝など)千篇一律のステレオタイプであるのに反して、儀式行為はより大きな個人的多様性をもっている点、とりわけ顕著なのは、宗教儀式の細々とした付随義務が深い意味を持ち、象徴的であるのに反して、神経症儀式のもつ付随義務は外見上、ばかげていてナンセンスに見えるという違いである。こうした違いを考慮に入れると、強迫神経症は、私家版宗教という、なかば滑稽にしてなかば痛ましい戯画ということになる。
しかしながら、精神分析による探求の技法を用いて強迫行為の理解を深めるならば、ほかでもない、神経症儀式と宗教儀礼のこの極めて歴然たる違いは消え失せてしまう。精神分析による探求をもってすれば、強迫行為がばかげていてナンセンスであるといった見かけは根底から粉砕され、それがなぜそうした外観をとっているかの理由が明るみに出されるからである。ここで分かるのは、強迫行為は、徹頭徹尾、その全ての細部にいたるまで意味に満ちているということ、強迫行為は、当の本人の重要な利益に奉仕するものであって、当人の、なおも効力を及ぼしつづけている体験や情動備給された思考を表現しているということである。強迫行為は、これを、直接的な上演か象徴的な上演かの二通りのやり方で行っているのであり、したがって、来歴による以下の事例d、eか象徴による以下の事例a、かのどちらかで解釈できるのである。
以上の主張を分かりやすく説明するために、ここで例をいくつか出さないわけにはいくまい。精神分析研究が精神神経症に関してもたらした成果に精通している向きには、いまさら驚くにはあたらないだろうが、実は、強迫行為ないしは儀式によって上演されているものは、当事者のもっともプライベートな、大抵は性的な体験に出来しているのである。
事例a、私の診察していたある娘さんは、洗濯の後盥の水を何度もぐるぐる廻してゆすぐという強迫にとらわれていた。この儀式行為の意味は、きれいな水を手に入れるまでは、汚れた水を捨てるべからず、という諺にあった。この行為は、愛する妹をたしなめ慎重にさせ、現在の面白味のない亭主と別れる前にもっといい男をつかんでおくようにさせるためのものだったのである。
事例b、夫と別居中のある婦人は、食事の時に、一番おいしいところを残すという強迫にとりつかれおり、例えば焼肉なら周辺しか食べないといったふうであった。この断念が何を意味するのかは、それがはじめて起こった日付から説明がついた。つまり、これが始まったのは、彼女が夫に夫婦の交わりを断つと告げた。すなわち、一番おいしいものを断念した日の翌日だったのである。
事例c、この同じ女性患者は、ある決まった、ただ一つの肘掛椅子にしか座ることしかできず、またそこから立ち上がるのにいつも困難をきたしてきた。この椅子は、結婚生活におけるある細かな事情との絡みがあって、彼女は、この強迫を説明するためのものとして、いったん腰かけた亭主からは、ある瞬間、とりわけ目立った無意味な強迫行為を繰り返していた。
自分の部屋を出て、中央テーブルが置いてある別の部屋に駆け込み、そこに掛かっているテーブル掛けの位置をあるやり方で整え、それから呼び鈴を鳴らして女中を呼びつけ、テーブルのところへ来させて、その後、何かどうでもいいような仕事を言いつけて再び去らせる、という強迫である。彼女は、この強迫を説明しようと努め、当のテーブル掛けに一か所変色した染みがあること、自分はいつもテーブル掛けを、この染みが女中の目にとまるように按配していることに思いいたった。やがて判明したのは、この行為全体は、自身の結婚生活でのある体験、そののち彼女の思考に解決しなければならない課題を押しつけてきたある体験を再現したものだということであった。夫は、ちょうどそのときインポテンツに陥り、今度こそうまくいかないか繰り返し試そうと、夜中じゅう、何度も自分の部屋から彼女の部屋へと走り込んで、シーツにインクを注ぎかけたが、まずいはことに、赤い染みは、意図にぜんぜんそぐわぬところに出てきてしまったということである。つまり、彼女は、この強迫行為でもって初夜を演じていたのである。テーブルとベッドは、二つの結婚を意味しているわけである。
事例e、この婦人には、紙幣を手放す前にその番号を一枚一枚かきとめておくという強迫があったが、これもこの事例と同様に来歴から説明のつくものであった。彼女が、もっと頼りになる別の男性がでてくれば夫と別れようと考えていたころのこと、とある紳士が彼女に恭しく接近しようとしてくることがあった。無論彼女としては、この紳士が真面目な気持ちを持っているのかどうか、なお半信半疑であった。ある日、彼女は両替してくれたあと、その大きな硬貨をしまいこみながら、こいつは金輪際手放しませんよ、だって、あなたの手を通じてやってきたものですからね。と愛想たっぷりに言った。その後彼女は、彼と一緒になるたびにしばしば、あの時の5クローネ銀貨を見せてもらえないかとお願いしてみたい気持ちに駆られることになった。言ってみれば、彼の好意ある言葉が衷心からのものだったかどうかを確かめようとしたわけである。しかし彼女は同じものかどうか判別できないし、などともっともな理由づけをして、そうするのを思いとどまった。ともかく、こうして疑いは晴れないままに残ることになった。そしてこの疑いが、彼女に、一枚一枚を間違いなく個別に同定できるための紙幣場番号を書き留めるという強迫を残すことになったのである。
数多くの私の経験から選び出したこれらのわずかな例は、全ての強迫行為意味をもち解釈不能である、という証明をするためのものにすぎない。同じことは、本来の儀式についてもあてはまるが、ただしその場合には、証明するのにもっと詳細な報告が必要となるだろう。
無論、以上の強迫行為の説明がどれほど宗教の思考領域からかけ離れた外観をもっているかは、私としてもしかとわきまえているつもりである。
病気の条件の一つとして不可欠はのは、強迫に服している人が、その強迫の意味、少なくともその主要な意味、を知らないままそうしているということである。強迫行為の意味、並びに強迫行為へと駆り立てる動機は、精神分析による治療努力を通じてはじめて本人に意識されるのである。われわれはこの容易ならぬ事態を、強迫行為は無意識的な動機と表象を表に出すためのものであるという言い方で表現している。ここにもまた一つ、宗教儀式とのあらたな違いが現れているように見える。しかし、個々の敬虔な信者もやはり、ふつうは宗教儀式へと駆り立てる動機は、知られていないか、あるいは、彼らの意識においては、口実としての動機にすりかわっているのである。
続く。