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フロイトの論文から(夢の歪曲)

2013.08.09 Friday[フロイトcomments (0)

もし私がここで、夢のどの一つをとっても、その意味は欲望成就であり、そして欲望の夢以外には夢はない、という主張を挙げたとしたら、各方面から断固たる反論を受けることは必定である。人々は私に反対して次のように言うだろう。(願望成就として理解すべき夢があるということは、何も目新しいことでははなく、幾多の著者たちにもう古くから気づかれていた(ラーデンシュトック、ブルキンシエ、ティシエ、シモン、そしてグリーンジンガーのある個所)。
しかしこともあろうに、欲望成就の夢以外に夢はない、などというのはおよそ裏付けのない誤った一般化である。幸いにそれについては容易に反証が挙げられる。内容が苦痛を極め、欲望成就のかけらもないような夢がいくらでも現れる。悲観論哲学者のエードゥアルト.フォン.ハルトマンなどは欲望成就理論からはおよそ隔絶したところにたっている。ハルトマンはその著書<無意識の哲学>の第二部でこんな風に語っている。(夢がはじまると、覚醒生活のあらゆる煩いが睡眠の中にまで持ち込まれてくる。そこに見出せないものと言えば、教育を受けた人々にとって人生を多少とも耐え忍べるものにしてくれるもの、つまり学問と芸術の楽しみだけである...)。
しかし、ここまで気難しい人でなくとも、夢には苦痛と不快の方が快よりも優勢であるということは、多くの観察者、例えばショルツ、フォルケルトなどの主張するところである。実際、フローレンス.ハラムとサラ.ウィードという二人の女性研究者は、自分たちの夢の調査に基づいて、夢では不快が優勢であることを統計的に示している。彼女らによれば58%の夢は(不愉快)で
28.6%だけが積極的に<楽しい>と言える夢である。生活の様々な煩いを夢の中に持ち込んでくるこういう夢に加えて、さらに、不安夢というものがある。不安夢においては、不快な感情の中でも最も恐ろしい感情が我々を捉え、我々の目を覚ましてしまう。しかも、子供の夢には欲望成就が露呈していると論じられているにもかかわらず、このような不安夢に最も襲われやすいのは、他ならぬその子供たちなのだ。
実際のところ、確かに不安夢というものは、我々がここまでの各章で諸々の例から得た定式、すなわち夢は欲望成就であるということの一般化を不可能にしてしまい、さらにはこの定式に不条理の烙印を押してしまうようにさえ見える。
ところがどうして、この一見あらがい難い反論から身を譲ることは、それほど困難というわけではない。我々の理論は、顕在的な夢内容の判定に基づいているのではなく、解釈作業によってそれと知られる、夢の背後の思考内容に関するものである。そのことさえよく見ておいていただければよいのである。われわれは顕在的な夢内容と潜在的な夢内容の対立を構想しているのだ。顕在的な内容が苦痛極まる様式を取っている夢があるということは正しい。しかし、こうした夢を解釈し、その顕在的な思考内容を明るみに出そうと試みた人がこれまでに果たしてあっただろうか。もしそうした試みがなされてないとしたら、さきほどの二つの反論に我々はもはやたじろぐ必要はあるまい。苦痛な夢も、不安夢も、解釈成就としての姿を露にしてくれるかもしれないという可能性が、ともあれ残されていることにはなるからである。
学問的な作業においては、ある問題の解決が困難であるときに、二番目の問題を引き照らしてみると有利に働くことが稀ではない。たとえて言えば、胡桃を一つ一つ割るよりも二つの胡桃を合わせて割るほうが易しいのと同じことである。
それで、我々は苦痛な夢とがどうして欲望成就でありうるのかという問いの前で手をこまねいているのではなく、夢に関するこれまでのわれわれ自身の議論を出発点にして、二番目の問いを投げかけてみることができる。すなわち、何でもないような内容の夢は、欲望成就であることがいずれ判明するのだが、ではなぜその夢はその意味を、初めからあからさまに示しておかないのであろうか、と。先に詳しく取扱ったあのイルマへの注射を取り上げてみても、決して苦痛な性質の夢ではなくて、解釈を通じれば、立派な欲望成就だと認められるべき夢だった。それがそもそも解釈が必要であるようになっているのは、いったい何のためなのか。夢はその意味するところを、どうして直接に言わないのか。事実、イルマへの注射の夢は、夢見る者の欲望を成就された姿で呈示しているという印象を、すぐに与えてくれるものではない。読者もそのような印象は受けなかったであろうし、わたし自身も分析を施してみる前にはそのことがわからなかった。夢はわざわざ解明が必要なように振る舞うわけであるから、この振る舞いを夢の歪曲は何に由来するのか、と。

この問いに対して最初に思い浮かぶことは何かと考えれば、おそらくいろんな答えが返ってくるだろう。例えば睡眠中だから、夢思考に適切な表現を与えるだけの力が欠けていても仕方がないではないか、という人もいるだろう。しかし、ある種の夢の分析は、夢の歪曲を別の仕方で説明することを余儀なくされる。わたしはこのことを次に揚げるわたし自身の二番目の夢について示すことにする。私はこの夢でも再び、個人的な慎重さをいろいろ面で犠牲にしなければならないことになるが、それは問題の根本的な解明によって償われることになるだろう。

まえおき
1897年の春、私はわれわれの大学の教授二人が、私を員外教授の候補に挙げてくれたことを聞き知った。この知らせは、傑出した人たちが二人も、個人的な繋がりは何もないのに私を認めてくれたということの表れだったから、私にとって誠に嬉しい驚きであった。しかし、期待を寄せすぎのは禁物だと私はすぐさま自戒した。というのは、この数年間、政府の省の方では、この種の推薦があってもずっと無視を続けていて、すでに私より年上で業績でも引けを取らない何人かの同僚たちが、むなしく任命を待っている状況だったかである。自分だけがことさらに幸運にありつける理由はなかった。従って私は、次のように言い聞かせて自らを慰めることにした。自分でわかる範囲だが、私は名誉欲の強い人間ではなく、自分の医師としての職業でそこそこの成功を収めているから、このうえ肩書きがなくても構わない。いや、それはぶどうが酸っぱいとか甘いとか言っているわけではなく、正直それが自分にとってあまりに高いところにぶらさがっているというだけのことである、と。

ある夕方のこと、一人の親しい同僚が私を訪ねてやってきた。その運命を私が自戒としていた同僚たちの一人であった。彼が教授昇任候補になってからもうかなりの時が経っていた。
教授と言えば、我々の社会では患者から見れば半分神様のようなものである。私のようにあきらめがよくなかったその同僚は、見通しが開けることを願って、機会あれば政府省に顔を出していた。その日も、そういう訪問を重ねた形で、私のところに寄ったのである。彼が言うには、その際もう思い切って高位の役人に食い下がり、彼の任命の遅れは、実のところは信仰上の事由からきているのではないかと、正直聞いてみたそうである。するとその答えは、昨今の情勢を勘案しまするに、大臣閣下におかれましても目下のところ即断されることができないものがあるとことは事実でありまして、云々というものであった。(それでも少なくとも、自分の置かれている位置がどういうものかは分かってた)と言って、友人は話を締めくくった。私にとって、彼の話は何も新しいことももたらさず、むしろ私のあきらめを強めることにしかならなかった。友人の身の上に起きている信仰上の事由は、私にもまたそのまま当てはまったからである。
この友人の訪問を受けた目の翌朝、私は夢を見た。その夢は、なかんずくその形式で際立っていた。それはきっちり二ずつの思考と図像から成り立っていて、それぞれの思考の後にはそれぞれの図像が現れていたからである。ただ、夢の後半は、ここで夢を記述しようとする。

目的からはずれるので、報告するのは前半だけにする。
1… 友人Rは、私の叔父なのだ。-私は彼に大きな情愛を感じる。
2私の目の前に彼の顔が違って見える。言ってみれば縦に引き延ばしたような感じだ。顔の
周りの黄色い髭が特にはっきりと目立っている。
この後に、先述のように二つの部分が続く。初めに思考があり次に図像があるが、省略する。
この夢の解釈は次のように進められた。
朝のうちにこの夢が思い出されてきたとき、私は声を出して笑ってしまった、これはまた愚にもつかない夢を見たものだ、と。しかしこの夢は消えてしまわず、一日中私の年頭を去らなかったので、私は夕方になってようやく自分を責め続けた。(もし、夢解釈のときに、お前の患者の誰かが、いや、これはただの愚にもつかない夢ですよ、としか言わなかったら、お前はその患者をたしなめて、その夢の背後には何か面白くない話が隠れていて、それを知る事を患者は避けようとしているのだと推測ではないか。己自身にも同じように振る舞い賜え。愚にもつかない夢だというお前の考えの意味するところは、夢を解釈することに対する内容な抵抗に他ならぬ。そんなところで立ちすくんでいて何とする)。こうして私は解釈に取り掛かかったのだった。(Rは、私の叔父なのだ)。これはいったい何のことだ。私には一人にしか叔父はいなかった。ヨーゼフという叔父だ。この叔父をめぐっては悲しい話がある。30年以上も前の昔のことだが、彼は金儲けに熱心にするあまり、法律が厳しく禁じている種類の取引に手を染めて、事実厳しく罰せられることになったのである。私の父は嘆きの余り、数日の間にごま塩頭になってしまったが、いっもこう言っていた。ヨーゼフ叔父さんは悪い人ではなかったけれども、ただちょっとおつむが弱かったんだ、と。それが父の言い方であった。だから、もしも友人がヨーゼフ叔父さんなら、私は、友人Rはおつむが弱い、と言おうとしていることになる。縦長になってしまって髭が黄色い。実際、私の叔父も顔が長く、髭がきれいなブロンドであった。友人Rま、もともと黒々とした髭を生やしていた。
しかし、黒い髭も生やしていると、やがて灰色になってきたときに飄爽としていた分だけにみじめになる。一本また一本と、見苦しく変色してゆく。まず赤褐色になり、それからやっとすっかり灰色になる。友人Rの髭は、ちょうどこの変化を辿っている最中であった。ついでながら、私自身の髭も、残念なことに御同類であった。夢で見たあの顔は、友人Rの顔でもあれば叔父の顔でもあった。それはちょうど、家族的類似を究明するためにいくつかの顔を同じ感光板に焼き付ける、ゴールトンの合成写真のようなものであるだからもう疑うことはできない。私は現実に、友人Rは、ヨーゼフ叔父と同じように、ちょっとおつむが弱いと、思っているのだ。
しかし、自分でもいちいち反発を覚えざるを得ないようなこんな関係を、いったい何の目的があって私は作り出してしまったのか、とんと見当たらない。この関係はやはりそんなに深いところに及んでいないのではないか、なぜというように、叔父は法を犯したことのある人間だが、友人Rま清廉潔白な人なのだから。ただし、彼はかつて自転車に乗っていたとき、学童にぶつかり倒してしまい、処罰を受けたことがあった。この事犯が私の心の中にあったのだろうか。それは比較するのもおかしい程度のものだったに。ここまで来て、私は数日間に別の同僚のNと交わした会話に思い至った。そこでも同じ話題が出ていた。

道でNに会ったのだった。彼もまた教授候補の推薦されていた。彼は、私にも推薦の栄誉が与えられたことを知ってくれたのか、私は素直にそれを受け取る気にはなれず気にはなれずにすぐに反論した。(ご冗談でしょう。こうした推薦がどんなに当てにはならないものがご自分こそ良くご存じでのはずではありませんか)。しかし彼は、(いやいや分かりませんよと答え、冗談めかしてこう言った。(私の方には、ちょっと逆風が吹いていますからね。ある人が私を告発したことがあるんですよ。ご存じなかったですか?勿論取り調べは猶予されていました。よくある脅迫の類に過ぎませんでしたからね。むしろ告発した女性の方が処罰されたりしないように私が骨を折ってあげた位です。しかしどうやら、政府の省の方では、私を任命しない口実にそれを使っているようです。それに引き換え、あなたには何も悪い評判がない)。これで私は、法を犯したことがあるというのが誰のことであるのか、また同時に、私の夢の傾向性と解釈とが分かってきたのである。叔父のヨーゼフは、教授任命の下りない二人の同僚を、それぞれ、おつむの弱い人と法を犯した人として呈示していたのである。
そしてまた、このような呈示の仕方を、私がなぜ必要としたのかもわかる。もし友人RとNの任命遅延の理由が、信仰上の事由で説明できるとしたら、私の任命の可能性もまたあやしくなる。しかし、彼らが受けている拒否が、私にはあてはまらない別の理由によるものだとすることができれば、私はまだ希望を繋いでよいことになる。夢はこのように進んだのである。夢は、一人の友人Rをおつむの弱い人に、もう一人の友人Nを法を犯した人にした。私はそのどちらでもない。我々の間に共通点はなくなる。教授任命を楽しみに待ってよい。Rからの知らせ、つまり政府の省の高官が友人Rに言ったことは、私自身にも当てはめねばならぬものであったわけだが、この夢のおかげで、私はそうした苦痛な当てはめをしなくてよいことになったのである。しかし、私は、この夢の解釈をさらに進めざるを得ない。私はまだ、この夢の重荷から解放されたという感じがしない。自分の教授昇進の道を開いておくために、敬意を抱いている二人の同僚を、かくも軽薄に宥めたということに、我ながら落ち着かぬ気持ちにさせられる。もちろん、夢の主張に対してどのような価値付けを与えればよいのかを理解できるようになっているので、それを考えれば、自分自身のこうしたやり口に対する不満は、やわらぎはする。つまりもし私が現実に、友人Rのおつむは弱いと思い、友人が脅迫を受けたという話を信じてはいないのだと言ってくる人がいれば、私は何としても反撹するだろう。あるいは、私は、オットーのプロピル製剤の注射のせいでイルマが危険な病気になったということを信じているわけではない。今回も前回も、私の夢が表しているのは、そうであってくれればよいのだがという私の欲望に過ぎないのである。私の欲望はそのような主張として実現として実現されているが、今回の夢は、前回の夢よりも、その主張の不条理さが少ないといえる。今回の夢は、実際の手掛かりを巧みに利用して作られている。
ちょうど(火の無いところに煙は立たぬ)と思わせるような、よくできた誹誘のようなものである。というのも、友人Rは、学部教授の一人から反対票を投じられていたし、友人Nは、悪くとられる恐れのあることを陽気に私に漏らしたからである。だが、繰り返すことになるが、そのように考えてもなお、この夢はまだ解釈の余地を残しているように思えるのである。
続く。


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