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戦争はなぜに?(フロイトの論文から抜粋)

2013.09.19 Thursday[フロイト-

フロイトは実に戦争を嫌い、戦争がなぜ起きるのか?人間が戦争を起こす原因などを鋭くまず人間の本能や人間の精神分析をしている。如月自身、人間フロイトの暖かい面を見るにあたって感銘を受けた次第です。

では本文より、

アインシュタイン様。
あなたはご自身関心を寄せられて、他の人々も関心を払うにふさわしいとお考えになっているテーマについて、私に意見交換を求めたいとのご主旨伺いましたときには、二つの返事で承諾致しました。私としては、あんたがお選びになるのは、きっと今日の人知の限界に位置するような問題であって、私たち二人が物理学者、心理学者として、それぞれ独自にそこに追ってゆくことができ、それぞれが異なる方向から出発しながら最終的に同じ一つの土俵の上で出会えることになるような問題なのだろう。と期待いたしました。ところが、その後、あなたが、戦争という災厄から人間を守るために何ができるのかという問いを提起されたのには意表を突かれました。

私にはほとんど(私たちには)と言ってしまうところでした。このような問いに答える機能がないという気がしてひるんだのです。こういったことは政治家たちに任せるべき実践的な課題ではないかと感じたからです。しかし私はほどなく、あなたが自然研究者、物理学者としてこの問いを提起されたのではなく、ちょうど極地探検家フリチョフ・ナンセンが、飢餓に苦しむ人々や故郷を追われた世界大戦の犠牲者を教授するのを自らの責務としたように、国際連盟の呼びかけに応えるひとりの博愛家として、この問いを提起されたのだと理解いたしました。さらに、自分は何も実践的な提案を出すのを求められているのではなく、単に心理学の立場から考察するなら、戦争を防止するという問題はどのような様相を呈するかを述べるが期待されているだけだ、と思い直した次第です。

しかし、このことについてもお手紙ではほとんどのことが尽くされています。おかげで私は、いわば帆走しようにもそのための風を奪われた状態です。しかしここはひとつあなたの航跡を辿り、お手紙で提起されていることすべてを、私の持つ限りの知識、ないしは推測を起こして敷衍することで、微力ながらその見地の正しさを裏付けてみたいと思います。

あなたは最初に法と権力の関係を取り上げていらっしゃいます。これはたしかに私たちの考察にとって正しい出発点です。「権力」という言葉を、もっと強烈で非常な言葉である「暴力」に置き換えていいでしょうか。法と暴力とは、今日の私たちにとって互いに対立するものであります。しかし、一方が他方から生まれたことを示すのはたやすいことですし、私たちがそもそも始原に立ち戻り、これが当初いかに生じたのかを確かめれば、問題の解決とてたやすいはずです。しかし、以下で誰もが認める周知のことを、あたかも何か目新しいことであるかのように私が語るのをお許しください。文脈上、どうしてもそうせざるを得ないのです。

人間相合のあいだの利害の衝突は、原理的には暴力の行使によって決着がつけられます。動物界でも同じで、人間は自分がこの一部であることを自覚すべきです。ただし、人間にはさらにまた意見の衝突というものもあり、これは最高度の抽象の高みにまで達するだけに、決着をつけるにも暴力とは違う技法が必要とされるようです。しかし、このような事態の複雑化は後から起こったことです。当初、小規模な人間群族では、何か誰のものであるか、誰の意図が実行に移されるべきかは、どちらの腕力が強いかによって決定されました。腕力は、間もなく道具の使用によって強化されるとともに、やがてこれに取って代わられることになります。人より優れた武器を持つ者、あるいは人より武器を巧みに使いこなす者が勝利するのです。

すでに武器の導入によって、知力の優劣が、かつて剥き出しの腕力が占めていた位置を占めはじめることになるのですが、闘いの最終的な目的はあくまで同じです。どちらか一方が、自分の被る損害によって、また力の衰退によって自らの要求や異論を破棄させられるのです。これは、暴力が相手を永続的に除去するとき、すなわち殺してしまうときに、最も徹底したかたちで達成されることになります。これには二つの利点があります。

まず、負けた相手が再び敵対してくることはないこと、そして彼の運命が見せしめとなって他の者たちは彼の失敗を繰り返すまいとするようになるのです。さらに敵の殺害は、一つの欲動的な傾向を満足させますが、これについてはのちに触れなくてはなりません。殺害という意図に立ちはだかることになるのだが、敵を委縮させたまま生かしておけば、何か役に立つ仕事に利用することができるという発想です。こうなると、暴力は、敵を殺す代わりに服従させるのをもって満足することになります。これが敵に対する容赦の始まりですが、一方では、勝者はこれ以後、敗者の内に潜む復讐心を考慮に入れなければならなくなり、自分自身の安全の一部を破棄しることになります。

要するに、これがもともとの状態、権力の大きな者による支配、剥き出しであるか、知力の支えがあるかはひとまず借いて、暴力による支配です。私たちは、このような政体が発展の過程で変化してきたことを知っています。暴力から法に通じる道があったのです。しかし、どのような道だったのでしょうか。唯一これを借いてほかにない、そんな道だったと私は考えています。

それは、ある一人の者の強大な力によって複数の弱者たちの一致団結が対抗することができたいう事実を経て進んでゆく道だったのです。 (団結は力なり)です。暴力は団結によって打破され、この団結した者たちの権力が、一転、個人の暴力に対抗して法となって現れるのです。ここに見られるように、法とは一つの共同体に逆らう個人が出てくれば、いつでもそれに対抗する用意ができており、暴力と同じ目的を追求します。実際のところ違いは、言い分を押し通すのが、個人の暴力ではなく、共同体の暴力であるという点に尽きます。しかし、暴力から新たな法-の移行が執り行われるためには、ある心理学的な条件が満たされなければなりません多数者の団結は堅固で持続的なものでなければならないのです。

仮にこの団結が、そのただ一人の強大な権力者を打倒するためだけに結成され、彼を制圧した後に瓦解してしまったなら、成果は何一つなかったことになるでしょう。他の者に勝るとして自らの力を恃む次の者が再び暴力による支配を目指し、角遂は永遠に繰り返されることになります。共同体は永続的に維持され、組織化されねばならず、懸念される反乱を予防するための規則を作成し、この規則、遵守を監視し法に則った暴力行為の執行を担当する機関を設置しなくてはいけません。このような利害の共同体を承認することで、団結した人間集団の成員たちの間に互いを拘束しあう感情の絆、共同感情が出来上がってきます。
共同体の本来の力は、この感情によるものなのです。
以上でもってすでに本質的なところはすべて出そろったかと思われます。

続く。

この続きは最後までアインシュタインに書いた戦争はなぜに?をここで全部紹介します。
戦争や争いを社会心理としても内容深く、分析しています。
後半には人間の本能も記しており、実に興味深い。アインシュタインはこの手紙をどう受け止めたかも気になるところですが‥.


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