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戦争はなぜに?(フロイトの論文から抜粋)��

2013.09.27 Friday[フロイト]-

これを現在の私たちに通用してみますと、あなたがもっと手近に到達されたのと同じ結論がでてきます。それは、戦争の確実な防止は、人々が中央に権力の設置に合意し、利害関係をめぐる抗争の全てについて司法の判断をこの権力に委ねるときにのみ可能となる、というものです。ここには明らかに二つの要請が一体として求められています。このように上位に位置づけられる審級を設けること、そして、この審級に必要な権力を与えることです。

片方の条件が満たされてはいません。国際連盟は自ら国有の権力を持っておらず、持ちうるとすれば、新しい統一体の成員たる個々の国家が権力を国際連盟に委譲するときだけです。しかし、これについては目下のところ何の展望もないように思われます。国際連盟というものが、人類史上あまり企てられたことのない、ことによるとこれだけの規模ではついぞ企てられた試しのない試みであるのをわかっていなかったら、人は国際連盟という制度を見ながら、それを全く理解していないことになるでしょう。これは、通常なら権力の占有に基づく権威、すなわち強制的な影響力を、一定の理念的な姿勢に訴えることを通じて獲得しようという試みなのです。先に、共同体を結束させるのは二つの事柄だと述べました。
暴力による強制と成員たちの感情の粋による拘束、術語を用いるならば同一化による一体感、です。

一方の契機が脱落してしまっても、もう一つの契機によって共同体は維持されるかもしれません。もちろん、先に述べた理念がなんらかの意味を持つのは、それらが成員にとって4共同体は維持されるかもしれません。もちろん、先に述べた理念がなんらかの意味を持つのは、それらが成員にとって重要な共通の関心に表現を与えている場合に限られます。そうなると、その理念がどれほど強固なものであるかが問われます。理念が実際に作用してきたのは、歴史が教えるところです。例えば汎ギリシャ的理念がそうです。

自分たちはまわりに住む野蛮人よりも優れた存在であるという意識は、アンピクテイオン同盟や神託、祝祭制などの中に強力に表現されておりますが、この意識が強かったゆえに、ギリシャ人の間で戦争が行われた際には、その流儀も温和なものとなるほどでした。しかし、そうは言っても、ギリシャ民族に属する小部族間の軍事的な紛争を防止することはできませんでしたし、一つの都市や都市同盟が、どこかライバルに不利を及ぼすために宿敵ペルシャ人と同盟を結ぶのを妨げるほどの力もありませんでした。同じくまたキリスト教徒としての一体感も、それなりに強力なものであったとはいえ、ルネサンスの時代には、キリスト教を奉じる大小の国々が、互いの戦においてスルタンの支援を得るべく画策するのを妨げませんでした。私たちの時代にも、このように世の中を一つに束ねる権威を期待しうるか生まないことは、あまりに明白です。

中には、ボルシェビキ的な考え方がまず広く一般に浸透することによって初めて、およそ戦争というものを終わらせることができると予言してみせる人もおりますが、いずれにいたしましてもこのような目標は、今日の私たちにとってあまりに迂遠であり、おそらく幾多の恐ろしい内乱の後でしか到達しえないでしょう。してみれば、やはり現実の権力を理念の力に置き換えようとする試みは、今日においてなお失敗に帰する定めにあるように思われます。法はその元を辿れば剥き出しの暴力による支えを欠かしえない。このことを考慮しないなら、とんだ計算違いをしでかすことになります。

さて、ここで、あなたが提起されている命題のうち別の一つに注釈をしてみたいと思います。あなたは人間を戦争に熱狂させることが実に容易であることを不思議に思っていらっしゃる。そして、人間のうちには、何か憎悪や殲滅への欲望といったものが作用しており、これがそのような煽動に迎合するのではないかと推測していらっしゃいます。ここでもまた、私は何の留保もつけずにご意見に賛同するほかありません。

私たちはそのような欲動の存在を信じており、まさにここ数年間、この欲動がどう発現するかについて研究するべく努めてまいりました。この機会に、私たちが精神分析で幾多の模索と曲折の末に辿りついた欲動の一端をお話してよいでしょうか。
続く。


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