戦争はなぜに?(フロイトの論文から抜粋)��
御関心の所在は戦争の防止であって私たちの理論ではないのが分かっていながら、無理やりそこに自分の話をこじつけているのではないかと案じます。なおしばしの間、破壊欲動の話を続けさせて下さい。破壊欲動は、よく話題になるものの、その意味の解明はそれに足並みをそろえることが到底できていません。私たちは、いくらか思弁を重ねることを通じて、この欲動が生あるものすべての内に働いており、さらに、その生体を崩壊に至らせ、生なき物質の状態に連れ戻そうという志向を備えているという見解に至ったのです。
この欲動は、文字どおり死の欲動という名に値します。それに対してエロース的な欲動群は、生への意欲を代表しています。死の欲動は、特別な器官の助けを借りて外部へ、対象へ向けられると、破壊欲動となります。生物はいわば異物を破壊することによって自分自身の生を維持します。しかし、死の欲動の一定部分は生物の内部に残存し働きつづけます。私たちは相当数の正常な現象や病的な現象をこの破壊欲動の内面化から導き出すことを試みました。良心の成立を、攻撃性が内部へと向けらことから説明するという異端に手を染めさえしました。お察しのとおり、この現象があまりに大規模に行われると、まったく危なげないとは言えません。
端的に不健全であります。他方、欲動の諸力が外界での破壊へと向けられるのは、生物にとって負担を軽減することになり、憂さ晴らしの効果もあるに違いありません。私たちは今、人間の中にある醜く危険な志向全般についての生物学的な弁解となるでしょう。このような志向のほうが、それに対する私たちの抵抗よりも自然本性に近いというのは認めざるをえませんし、また、なぜ、自分たちはこういった抵抗をするのかについても、私たちは説明を見出さねばなりません。もしかするとあなたは、私たちの理論が一種の神話だ、しかも神話であるにしてもいささかも悦ばしい神話ですらない、という印象をお待ちかもしれません。しかし、すべての神話科学は最終的にこのようなある種の神話に行き着くのではないでしょうか。今日、あなたがたの物理学では事情は異なるでしょうか。
以上に述べてきたことから、私たちは自分たちのあたっての目的のために、とりあえず人間の攻撃的な傾向を廃絶しようと望んでも見込みがないということを引き出しておきましょう。なんでも地上には幸せな地域があって、そこでは自然が、人間の必要とするものならすべて溢れるほど豊富に与えてくれ、そこに住む種族の生活は温和に過ぎ行き、強制も攻撃も知らないのだそうです。そのようなことはおよそ信じることはできませんが、この幸福な人々についてはもっと話を聞きたいものです。ボルシェビキの面々もまた、物質的な欲求を満足させることを保証し、その他の点でも共同体に参加する者たちの間に平等を打ち立てることによって、人間の攻撃性を消滅させることができると希望しています。
私はこれを錯覚だと考えます。当面、彼らは、はなはだ念入りに武装しておりますし、自分たちの支持者を結束させるのにも、外部の者すべてに対する憎悪に頼るところが少なからずありません。ちなみに、ご自身でもお気づきのように、ここではなにも人間が持つ攻撃への傾向性をすっかり除去しようというのではありません。せいぜい試みうることといえば、それをなるべく別の方向に誘導して、攻撃への傾向性が戦争で表現される必要がないようにすることくらいです。
私たちの神話的な欲動理論から、間接的に戦争というものを打ち倒す方法の指標となる言葉がたやすく見つかります。好んで戦争へと向かう態度が破壊欲動の発奮ならば、この欲動に対処するには、それに対立する存在たるエロースに声をかけるというが当然、考えられるところです。何であれ、人間の間に感情の絆による拘束を生み出すものは、すべて戦争に逆らうはずです。もっとも、これには性的な目標が伴うわけではありません。精神分析は、ここで愛と言う言葉を使うのを恥じる必要はありません。宗教が同じことを言っているからです。いわく、汝自身のように汝の隣人を愛せよ。これはただ、言うは易し、行うは難し、です。
もうひとつの類いの感情の絆による拘束は、同一化による一体感です。人間の間に重要な共通の関心を生み出すものはすべて、このような共同性の感情、同一化による一体感を喚起します。人間社会は、大概のところこういった感情と同一化の上に打ち立てられているのです。
あなたが権威の乱用を嘆かわしいと述べておられるお言葉から、戦争の傾く性向を間接的に打ち倒すためのもう一つの示唆が得られます。人間は、生まれながらにして指導する者と従属する者とに分かれますが、この不平等を取り除くことはできません。大半は従属する者であり、自分たちに代わって様々な決定を下してくれる権威を必要とし、ひとたび下された判断には、大抵無条件に従います。これに連関する話ですが、自立していない大衆の統率を担うべき自立して考える人間、威嚇に屈さず真理と格闘する人間から成る上層部を育成するために、これまで以上に意を用いる必要があるでしょう。国家権力による干渉や教会による思想の禁圧は、このような訓育に不都合であるのは論を埃ちません。
理想的な状況は、もちろん、自らの欲動生活を理性の独裁に服従させた人間たちの共同体でありましょう。これほどに完全で抵抗力を持つ、人間の結束を呼び起こしうるものは他にはないはずです。たとえ互いの感情の絆による拘束を断念しても、それには及ばすまい。しかし、これはどうやら九分九厘、ユートピア的な希望と見て間違いありません。間接的に戦争を回避するには、別の方法を取るほうが現実的
でありますが、それとてすみやかな成功を約束してくれるものではありません。粉挽き小屋の水車がやたらゆっくり回るものだから、待たされる人間は粉が挽きあがる前に飢えて死ぬ、などというのは、考えるだにいやじゃありませんか。
ご覧のとおり、浮世離れした理論家に喫緊の実践的な課題について相談しても、ろくなものが出てきません。人は、各自、いま手許にある手段でもって、それぞれ個別に危機に対処するように努めるほうがいいのです。しかし、私の関心を引く問いを一つ論じたいと思います。なぜ私たちは戦争に対してこれほどにも憤慨するのでしょうか。あなたも私も、その他、多くの人々もそうですが、なぜ私たちは人生の数ある辛い窮境の何かほかの一つのように、戦争を耐え忍ばないのでしょうか。そもそも戦争というものは自然の道理に適い、生物学的にも歴とした基礎を持ち、実際面ではほとんど避けられそうにもありません。
私の問題提起に驚かないで下さい。考察を目的とする以上、実際に持っているわけでもない超然の士の仮面をつけることとて許されるかもしれません。右の問いに対する答えは次のようなものでしょう。いわく、なぜなら、人間は誰しも自分自身の生にこだわりそれを処する権利を持つからであり、また戦争は希望に満ちた人生を破壊させ、個々人をその尊厳を辱めるような状態に追いやり、彼らをして、望んだわけでもないのに他人を殺害するように無理強いし、人間の労働によってもたらされた成果である貴重な財貨を破壊するからだ。そればかりではない。例えば、戦争も現代のような形態になると、昔の英雄的な理想を充足する機会を与えてくれないし、また将来の戦争は、破壊手段が完成し、敵対する陣営の一方だけではなく、もしかすると双方の側もろともの根拠を意味することになるだろう...。
これらはすべてそのとおりで、およそ議論の余地がないように思われ、いまだに、挙げて人類が一致して戦争に遂行を棄却していないのを不思議に思うほかありません。確かにこれらの点の内個々については議論することができましょう。共同体が個々人の生を処する権利を持つべきではないかどうかは疑問です。またあらゆる類いの戦争を一律に弾劾するわけにはいきません。折あらば容赦なく他を殲滅するつもりでいる帝国や国が存在する以上、他の国々としては戦争に備えて装備を整えておかなければなりません。しかし、これらはひとまず全て脇に置いて置きましょう。
あなたからお誘いを受けたのは、こういった議論ではないからです。私が目指しているのは別のことです。なぜ私たちが戦争に対して憤慨するのか、その主たる理由は、他になすすべがないからです。だとすると、私たちが自らの立ちの正当性を論証するのはたやすいことです。太古の昔から人類には文化の発展過程が連綿と続いている(このようでいられることのうちその最良の部分はこの過程のおかげだが、われわれを苦しめるものの大部分もやはりこの過程の所産である...。
続く。
如月eye
第一次世界大戦を経験しその最中でのフロイトの冷静な鑑識眼と客観性、その大戦中の心境はかなり複雑だったのだろうと思われます。今やほとんどの学者や今を生きる現代人にとって知識しか得ることのできない、歴史だけが残るのだけだが、人間の精神分析を研究する中で痛いほど戦争の愚かさや後世にも言い伝えなければならない、何か使命感としても医者として心理学者として熱い想いが伝わってきます。フロイトの偉大な功績は数えきれない。
続きはいよいよクライマックスになります。

