戦争はなぜに?(フロイトの論文から抜粋)��
この過程が何を機縁にどのように始まったのかは不明ですし、その末も不確かですが、この過程の性格のいくつかについてはたやすく見て取れます。このまま行くと、ひょっとすると人間という種は消滅するかもしれません。というのも、この過程は性的な機能をいくつかの点で損なっており、すでに今日でも、文化的に進んでいない人種や、社会の中で遅れている住民層のほうが、文化度が高い人間たちよりも旺盛に人口を増加させているからです。もしかするとこの過程は特定の動物種家畜化に比べることができるかもしれません。
この過程には身体的変化が伴うのは疑いないところです。文化の発展がこのような気質面での変化の過程だ、という発想にまだ世の中は馴染みがありません。文化の発展に伴う心的な変化は顕著で、紛れもない事実です。この変化とは、欲動の目的の遷移がどんどん進行していって、欲動の轟きが制限されることにあります。私たちの祖先にとっで快に満ちていた感覚は、私たちにはどうでもいいものか、ないしは耐えがたいものにさえなりました。私たちの倫理的、ないし美的な理想要求が変化したのなら、それには器質面での根拠があるのです。
文化の心理学的な性格のうち二つが最も重要であるように思われます。まず欲動の活動を支配し始める知性が強まること、それと攻撃的な傾向性の内面化です。後者には、有用な帰結も危険な帰結も多々伴います。さて、文化の過程が私たちに強いる心理的な態度に真っ向から楯突くのが戦争です。だからこそ私たちにはもはやそもそもできなくなっています。それは単に知的で情動的な拒否ではありません。それは私たち平和主義にあたっては、器質的な不寛容であって、一つの特異体質がいわば極端に肥大化したものなのです。また、残虐であるのに加えて、戦争が美的な観点からしてこき下ろされているのも、私たちが戦争に反発を覚える大きな理由の一つではないかと思われます。
さて、私たちは他の人々も平和主義者になるまで、この先どれぐらい待たねばならないのでしょうか。それは何とも言えません。しかし、文化的な態度と、将来の戦争が及ぼす影響に対する当然の不安、これら二つの契機が働いて、近いうちに戦争遂行に終止符が打たれるであろうというのは、ひょっとすればユートピア的な希望ではないかもしれません。どのような道を経て、あるいは回り道を経てそれが実現するのかは、私たちは推し量ることができません、にも関わらず、文化の発展を促すものはすべて、戦争に立ち向かうことにもなるのだと言えます。心からのご挨拶をお送りしますとともに、私が述べてきたことがご期待に添えませんでしたらどうぞ、ご海容のほどお願いあげます。
如月eye
戦争はなぜに?をアインシュタインに送った手紙でした。
フロイトの考える器質的なもの。一つの得意体質が肥大化したもの。と述べているところはいわばどうにもならないものでしょうか。現在は第二次世界大戦も終わり68年ぐらいになる。その他の国で内乱やテロなどが起きてはいるが、大小は別にして湾岸戦争が記憶に新しい。文化的な態度と戦争が及ぼす当然の不安の二つの契機が働いて終止符が打たれるのかもと述べているところ、誰にしも死というものに対しては不安はありそれが正義のためとかわけのわからない大義名分のために争う愚かな行為。そして文化的な態度。あくまで何々的、的。文化の発展そのものは悪くない、しかし、どのようにしてそのプロセスを大切にするかが問題なのです。
日本においても電子toolが発展し、その言葉の意味や重さスピード、利便性、コミュニティ等。多くの障害も出ているのも事実。それはほんの一端ですが、またいろんなことができることでその反撥やデメリットも生ずるので、その最悪が戦争というものでしょう。
文化の発展に伴い、人間らしい生き方や考えをまさに一石を投じるフロイトのこの論文と言えます。

