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人間の心にある自我、エス、超自我の関係性

2013.07.03 Wednesday[フロイトcomments (0)

実に微妙な関係で成り立っている。これは精神分析医のジクムント、フロイトの考えた心の構造である。
超自我とはエディプスコンプレックスを形成、克服する男根期の親の影響によって内在化され、教育などを通じて強化されていく。超自我は自我が従わないと、自我を厳しく罰する。
その結果、劣等案や罪悪感が生じる。
超自我の大半は意識的だが、夢のメカニズムにおける検閲は、無意識的な超自我の働きによるものである。
超自我は自我の一部とされる。
超自我には無意識な部分もあるが、その大半は意識的である。
例えば、デートの約束をしている。デートの場所に行かなくてはならないのに、つい違う人と約束したり、嘘をついてドタキャンしたりするその時はやましさを覚えるだろう。
このやましさは超自我によるものでちゃんと意識されている。
超自我がなかったらとしたら、犯罪を働いても罪悪感を覚えないし、向上心も持たない。従って、社会は成立しないと考える。
快感原則と現実原則との関連で言えば、超自我は現実原則を代表しているといえる。
超自我と自我は、互いに対立する2つのものというより超自我は自我の一部とやはりいえる。
自我は心の主体で、自分が自分と思っているもので、はじめは全能感を持ち、次第に自分は全能ではないと気づいていく。
私が想うにはアイデンティティのようなものと理解する。
エスとは簡単に言えば、欲動の貯蔵庫である。ひたすら欲動を満足させようとするものあり、その内部は混沌としている。
心を動かすエネルギーは全てエスの中から湧き出しており、自我はエスからそのエネルギーを供給されているのである。
意識、前意識、無意識との関連でいうと、エスは全て無意識の中にある。
また、快感原則と現実原則の対立の関連でいうと、エスはひたすら快感原則に従う。
従って、自我はとしてはエスを野放しにしておくことはいかない。
そこで、自我とエスの関係が問題になる。

次はその説明をします。


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