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夢の解釈について(その1)

2013.07.31 Wednesday[フロイトcomments (0)

精神分析医のフロイトの論文から抜粋。
夢と覚醒生活の関係。
夢と言うものは、どこか別の世界から生い立って来たものではないはずなのに、眠っていた自分を、どこか別の世界に連れ去っていたかのようだ。これが眠りから覚めた人の心に浮かぶ、素朴な判断であろう。古参の生理学者であるブルダッハは、丹念で周到な夢現象の描写を行ったが、しばしば引用されてきた彼の次のような一節、はこういった確信めいた判断を、上手く表現して見せている。(...昼間の生活を、その喜怒哀楽とともに繰り返すどころではなく、むしろわれわれをそこから解き放つこと、それが夢の使命なのである。
われわれの心は、何ごとかで一杯に満たされているおともあるだろう。
深い苦痛がわれわれの内面を引き裂いていることもあるだろう。そして何らかの課題がわれわれの精神力を占領していることもあるだろう、しかしそのようなときにも、夢は素知らぬ顔で余所事をわれわれにもたらしてくれたり、現実からばらばらに要素を取り出して、いいように組み合わせて見せたり、あるいはわれわれの気分の調子に合わせて、現実を象徴で表したりしてくれる)
フィヒテも、この意味でもって直截に補完の夢ということを語り、これは、精神の自己治癒的な本性が与える密かな恩恵の一つである言うのである。
同様の意味で、シュトリンぺルもまた、夢の本性と発生に関する、各方面から高い評価研究において、次のような見解を表明している。
(夢は見ている者は、覚醒時の意識の世界に背を向けている...)
(夢の中では、覚醒時の意識の整序された内容の記憶とその正常な振る舞いとは、まったくと言っていいほど見失われている...)(夢の心は、覚醒生活の通例の内容と経過からは遠くかけ離れていて、ほとんど思い出すこともできない...)
とはいえ、大多数の著者たちは、夢と覚醒生活の関係に関しては、これとは対照をなす理解を示している。例えばハフナーは、(夢は、何はさておき覚醒生活の続きである。われわれの夢は常に、僅かに先立って意識の中に存在していた表象に関連付けられている。

多少厳密に観察を施してみれば、夢を前日の経験に繋ぐ糸が、必ずと言ってよいほど見つかるものである)。
ヴァィガントは、すでにすでに述べたブルダッハの主張に真っ向から反論している。
(夢が、われわれを日常生活から解放するどころか、むしろ再びそこへ連れ戻すことのおうが、圧倒的に多いように思えるではないか)。
モーリは、(睡眠と夢)の中で、簡潔な定式を披露している。
(われわれが見たり言ったり欲したり為したりしたことを夢に見る)
イエッセンは1885年に出版された心理学の著書の中で、さらに具体的に述べている。

(夢の内容は常に、本人の人格、年齢、性別、地位、教養、慣染んだ習慣、これまでの人生全体で経験した出来事などに、多かれ少なかれ規定される)。
この問題について鮮明なのは哲学者のマースである。
(われわれの最も煮えたぎった情熱が向けられているものごとを最も多く夢に見るというわれわれの主張は、経験から確認される。われわれの情熱が夢を作り出すのに大きな影響力を及ぼしたに違いないということが見て取れる。
名誉に飢えた者は、いとおしいお目当てのお相手の姿ばかりを夢を見る...。
心中にまどろんでいるあらゆる官能的な欲や嫌悪は、ちょっとした理由があると掻き立てられてやって来る。例えば、それらの欲や嫌悪と関係の深い表象が浮かんだとする夢はそこから生じて来るであろうし、またこうした表象がすでに出来上がりつつあった夢にも遠慮なく紛れ込んできたりするわけだ)。

続く。


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