Sei KIsaragiオフィシャルブログ


精神分析は大学で教えるべきか?

精神分析は教えるべきかという問いは、二つの立場から、つまり精神分析と大学側から検討されるであろう。
1、 精神分析に関する限り、それが大学のカリキュラムに採用されることは、あらゆる精神分析家によって肯定的に評価されるであろう。だがこのことは、精神分析家が何らかの仕方で大学に依存する、ということを意味しているのではない。
逆に精神分析家は、精神分析の文献研究によって自らの知識を獲得し、精神分析の学会においてそのメンバーたちと考察を交わすことでその知識を深めるのである。
精神分析家が精神分析の技法の扱い方を習得するのは、自らの人格分析の場合もあるし、また経験を積んだ同僚の監査の下での患者分析の場合もあるのだ。
精神分析の組織自体は大学活動からの追放によって生じたのであり、この追放が続く限り、ある一定の重要な専門教育の機能を果たし続けるであろう。
2、 われわれの問いへの大学側の返答が肯定的あるいは否定的のどちらになるかは、医師とその他の研究者の専門教育にとって精神分析に何らかの重要性があることを大学が認めようとするか否かにかかっている。精神分析の大学教育が行われる場合、さらに新たな問いが生じる。
それは、精神分析が大学の教育プログラムの中で最も適切に採り入れられるのは、どの部門において、そしてどのような形式においてなのかという問いである。
医学ならびに大学専門教育一般にとっての精神分析の役割は、私の考えでは、以下のような事実に基づいている。
a.ここ数十年、医学教育は非常に正当な批判を受けてきた。
医学教育は医学生の研究を解剖学、物理学と化学に限定しているが、生きていくために重要なさまざまな機能にとっての心的な諸要因の意義やその障害と治療に関する初歩的な教育を行わない限りにおいて、それは一面的なのだ。
このような怠慢は、わらわれの医師の一面的な態度に後々影響を与えているのである。
この医学教育の結果から生じたのは、ある面では、健康と病気という最も興味深い人間の問題に対して医師が関心を持っていないことであり、また別の面では、医師が患者とうまく付き合っていけないことである。この点においては、専門教育を受けたどんな医師も、あらゆる偽医者によってたやすく凌罵されてしまうのである。
この明白な欠陥を大学は医学心理学の講習によって補充しようと近年試みている。
しかし講習の内容が、大学の心理学あるいは実験心理学の詳細な調査によって規定されている限り、この講習はその役目を果たすことはできないし、医学生に対して世間一般の人間の問題と将来の患者についての理解への道を開くことはできないのである。
このような理由のために医学教育課程における医学心理学の位置は、今日まではっきりとしていていないのだ。
ここに精神分析が医学教育を手助けできる点がある。というのは、精神分析の一連の講義は、医学心理学に代わって、医学生が必要としていることを与えることができるであろうからだ。
私が思うに、精神分析自体の知識へと導くのは、詳細に解明された心身関係をテーマとする講習であろう。
心身関係は、あらゆる精神療法の根底に存する関係なのである。さまざまな暗示法の叙述の後に行われるのは、精神分析に関する叙述であろう。精神分析は、医学生を心理学の知識へ導くのに最もふさわしい方法であると同時に、心理学的な方法の中で最も広く深い方法とみなされるのである。
b,医学教育活動における精神分析の第二の機能は、精神医学研究への導入に精神分析が適していることにあるだろう。今日のわれわれの精神医学の性格は、もっぱら記述的である。
若い精神医学者が学ぶことには、個々の病的な諸障害を相好に区別することだけでなく、治療可能かどうかの区別や、公共的に害を及ぼすかどうかの区別も含まれている。
このような形式において精神医学が他の医学と関係しているのは、ただ病因学組織的かつ解剖学的に確定できる個所においてのみである。結局、精神医学は、観察された事実を理解する通路を開かないのだ。その通路を開くことは、深層心理学のみに期待することができるのである。
私が聞いている限りでは、アメリカではすでに精神分析の教育を二つの部分に分けることである。つまり、その最初の部分は、医学生全員に対する基礎的な講習であり、第二の部分は、将来の精神医学者のための特別講習である。
c.心的過程と知的機能の探求において精神分析はある特別な方法を用いているが、その応用は決して心的障害に制限されることはなく、芸術、哲学、宗教などの諸領域の問題の研究も含んでいる。
この点に関して精神分析の諸探究はすでに認められており、新たな視点へ導き、重要な知識をもたらした。ここで私は、文学史、神話学、文化史と宗教哲学というテーマのみを挙げておく、これらの成果が示しているのは、精神分析への一般的な人文講習は、医学生だけでなく、これらの諸科学の学生たちも受講できるようにすべきであることだ。
他の専門分野への精神分析的思考の実り豊かな効果に基づいて、さらにわれわれは医学と精神科学とのより緊密な連携を期待できるであろう。この連携は、将来の人文科学の大学への道の重要な一歩なのである。
私は次のような結論を導き出す。つまり、精神分析をカリキュラムの中に採用しようとする大学には利益しか得られない、ということだ。
ここで叙実されたような授業が独断的に行わなければならないことは避けがたいし、またその際に実験と証明が少なくなるであろうということは正しい。
しかし、精神分析の教師が研究するために必要とする全てのことは、外来診療病院への立ち入りが許されて神経症の患者の豊富な資料に接することであり、同様に精神分析的な精神医学者にとっては、精神病患者のための病院の部局へ立ち入ることなのである。
最後に次のような抗議に私が出会わざるをえないことを付言しておきたい。すなわちその抗議とは、このような仕方で実際に精神分析を習得すると医学生はまったく考えていないということである。このことが精神分析からの技法の扱い方に関してあてはめるのは当たり前である。
だが、このような抗議は、この企画の意図とはまったく別のことなのだ。われわれの意図にとっては、医学生が精神分析について何かを経験し、精神分析から何かを経験し、精神分析から何かを学ぶことなのだ。
我々の意図にとっては、医学生が精神分析について何かを経験し、精神分析から何かを学ぶことで十分なのである。よくよく考えてみれば、われわれは、大学研究の期間中に若い医学生が経験を積んだ外科医へと教育されることを期待していないのだ。
将来の外科医は、自分にとって特別な専門教育はある病院の外科部局での数年にわたる仕事においてのみ得られるのだ、ということを当然として受け入れているのである。