Sei KIsaragiオフィシャルブログ


戦争はなぜに?(フロイトの論文から抜粋)

2013.09.30 Monday[フロイト-

私たちは人間の欲動には二種類しかないと想定しております。想定一方には、維持し統合しようとする欲動群で、私たちはこれらを、プラトンの(饗宴)に出て来るエロースそのままの意味でエロース的な欲動、あるいは通俗的な性の概念を意識的に広げて性的欲動と呼んでいます。もう一方は、破壊し殺害しようとする欲動群で、私たちはこれらの欲動を攻撃欲動ないし破壊欲動という名で概括しています。

これが本来は世間に周知の愛情の対立を理論的に洗練したものにすぎないのはご覧のとおりです。ちなみに、この愛情の対立は、ご専門の分野で一定の役割を果たす引力と斥力の双極性と何か根源的な関係を持っているのかもしれません。さて、性急に善悪の評価を持ってくるのは控えましょう。これら二つの欲動野の内にいずれもが必要不可欠なのです。両者が協働したり対抗しあったりする中から様々な生の現象が生じてきます。

そうして、一方の種類に属する何か一つの欲動だけが単独で活動しうるなどということは、ほとんどないように思われます。欲動は常にもう一方の側のある一定量と結合しています。ちなみに、私たちはこれを混晶化している。と言っております。そのせいで、欲動の目標に変更や修正が加えられたり、あるいは場合によっては目標の達成が初めて可能になったりします。だから、たとえば自己保存欲動は、確かにその本性がエロース的なものとはいえ、自らの意図を貫徹することになるなら、それ自身、攻撃性を備えている必要があるのです。

同じように、対象に向けられた愛の欲動も、そもそも自らの対象を手に入れようというなら、征服欲動の援軍を必要とするのです。二つの欲動の種類を、それらの発現している状態において分離することは難しく、これに妨げられて、私たちも実に長い間これらの欲動を認識することができませんでした。この先、もう少し私に付き合って頂けるなら、人間のもろもろの行動には、さらにこれとは別種の合併、複雑化が認められるということについてお話しましょう。

行動がただ一つだけの欲動の蠢きの所産であることはごく稀です。欲動の蠢きそのものがそれ自体すでにエロースと破壊性とから合成されているに違いありません。通常、行為が可能となるためには、複数のそれぞれ同じように構成されている動機が出会う必要があります。あなたと同じ専門分野の先達であるゲオルク.クリストフ.リヒテンベルク教授のような人は、すでにこのことを意識していました。彼はわが古典主義の巨匠たちが活躍した時代にゲッティンゲンで物理学を講じていましたが、ことによると物理学者としてよりも心理学者としてのほうが重要であったと言えるかもしれません。

リヒテンベルクは、次の発現に見られるように、動機の羅針盤というものを考案しました。(人が何かをするときの運動根拠は、32万位と同じように整理することができ、その名称も例えばバン、バンとか、名声、名声、バンといった具合に風向きと似たような形で定式化することができるだろう)。したがって、戦争に馳せ参じるよう促されようものなら、人間の中にあるあまたの動機が戦争に賛同の声をあげることでしょう。気高い動機に卑しい動機、声高に語られる動機もあれば人には言えない動機もあります。私たちは何もこれらすべてをさらけ出すいわれはありません。

攻撃と破壊に興じる快は、間違いなくそういった動機の一つであり、歴史上の、あるいは日常の数えきれない残虐行為は、これらの動機が存在し、またいかに強力であるかを裏付けています。この破壊追求が別の追求、例えば性愛や理念の追求と混こうすると、当然、満足が得られやすくなります。

歴史上の蛮行を耳にするとき、理念的な動機は破壊的な情欲によって単に口実として利用されたにすぎないという印象を受けることがままあります。別の場合にはまた、たとえば異端審問における残虐行為はでは、もろもろの理念的な動機が意識の前面でわれ先にひしめく一方、破壊的な動機がそれらに無意識に加勢していると思われたりもします。いずれもありえます。


続きます。



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10月3日から放送!

2013.09.27 Friday[ラジオcomments (0)

スーパーバイザーとして参加しています。


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戦争はなぜに?(フロイトの論文から抜粋)

2013.09.27 Friday[フロイト-

これを現在の私たちに通用してみますと、あなたがもっと手近に到達されたのと同じ結論がでてきます。それは、戦争の確実な防止は、人々が中央に権力の設置に合意し、利害関係をめぐる抗争の全てについて司法の判断をこの権力に委ねるときにのみ可能となる、というものです。ここには明らかに二つの要請が一体として求められています。このように上位に位置づけられる審級を設けること、そして、この審級に必要な権力を与えることです。

片方の条件が満たされてはいません。国際連盟は自ら国有の権力を持っておらず、持ちうるとすれば、新しい統一体の成員たる個々の国家が権力を国際連盟に委譲するときだけです。しかし、これについては目下のところ何の展望もないように思われます。国際連盟というものが、人類史上あまり企てられたことのない、ことによるとこれだけの規模ではついぞ企てられた試しのない試みであるのをわかっていなかったら、人は国際連盟という制度を見ながら、それを全く理解していないことになるでしょう。これは、通常なら権力の占有に基づく権威、すなわち強制的な影響力を、一定の理念的な姿勢に訴えることを通じて獲得しようという試みなのです。先に、共同体を結束させるのは二つの事柄だと述べました。
暴力による強制と成員たちの感情の粋による拘束、術語を用いるならば同一化による一体感、です。

一方の契機が脱落してしまっても、もう一つの契機によって共同体は維持されるかもしれません。もちろん、先に述べた理念がなんらかの意味を持つのは、それらが成員にとって4共同体は維持されるかもしれません。もちろん、先に述べた理念がなんらかの意味を持つのは、それらが成員にとって重要な共通の関心に表現を与えている場合に限られます。そうなると、その理念がどれほど強固なものであるかが問われます。理念が実際に作用してきたのは、歴史が教えるところです。例えば汎ギリシャ的理念がそうです。

自分たちはまわりに住む野蛮人よりも優れた存在であるという意識は、アンピクテイオン同盟や神託、祝祭制などの中に強力に表現されておりますが、この意識が強かったゆえに、ギリシャ人の間で戦争が行われた際には、その流儀も温和なものとなるほどでした。しかし、そうは言っても、ギリシャ民族に属する小部族間の軍事的な紛争を防止することはできませんでしたし、一つの都市や都市同盟が、どこかライバルに不利を及ぼすために宿敵ペルシャ人と同盟を結ぶのを妨げるほどの力もありませんでした。同じくまたキリスト教徒としての一体感も、それなりに強力なものであったとはいえ、ルネサンスの時代には、キリスト教を奉じる大小の国々が、互いの戦においてスルタンの支援を得るべく画策するのを妨げませんでした。私たちの時代にも、このように世の中を一つに束ねる権威を期待しうるか生まないことは、あまりに明白です。

中には、ボルシェビキ的な考え方がまず広く一般に浸透することによって初めて、およそ戦争というものを終わらせることができると予言してみせる人もおりますが、いずれにいたしましてもこのような目標は、今日の私たちにとってあまりに迂遠であり、おそらく幾多の恐ろしい内乱の後でしか到達しえないでしょう。してみれば、やはり現実の権力を理念の力に置き換えようとする試みは、今日においてなお失敗に帰する定めにあるように思われます。法はその元を辿れば剥き出しの暴力による支えを欠かしえない。このことを考慮しないなら、とんだ計算違いをしでかすことになります。

さて、ここで、あなたが提起されている命題のうち別の一つに注釈をしてみたいと思います。あなたは人間を戦争に熱狂させることが実に容易であることを不思議に思っていらっしゃる。そして、人間のうちには、何か憎悪や殲滅への欲望といったものが作用しており、これがそのような煽動に迎合するのではないかと推測していらっしゃいます。ここでもまた、私は何の留保もつけずにご意見に賛同するほかありません。

私たちはそのような欲動の存在を信じており、まさにここ数年間、この欲動がどう発現するかについて研究するべく努めてまいりました。この機会に、私たちが精神分析で幾多の模索と曲折の末に辿りついた欲動の一端をお話してよいでしょうか。
続く。


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戦争はなぜに?(フロイトの論文から抜粋)

2013.09.27 Friday[フロイトcomments (0)

これを現在の私たちに通用してみますと、あなたがもっと手近に到達されたのと同じ結論がでてきます。それは、戦争の確実な防止は、人々が中央に権力の設置に合意し、利害関係をめぐる抗争の全てについて司法の判断をこの権力に委ねるときにのみ可能となる、というものです。ここには明らかに二つの要請が一体として求められています。このように上位に位置づけられる審級を設けること、そして、この審級に必要な権力を与えることです。

片方の条件が満たされてはいません。国際連盟は自ら国有の権力を持っておらず、持ちうるとすれば、新しい統一体の成員たる個々の国家が権力を国際連盟に委譲するときだけです。しかし、これについては目下のところ何の展望もないように思われます。国際連盟というものが、人類史上あまり企てられたことのない、ことによるとこれだけの規模ではついぞ企てられた試しのない試みであるのをわかっていなかったら、人は国際連盟という制度を見ながら、それを全く理解していないことになるでしょう。これは、通常なら権力の占有に基づく権威、すなわち強制的な影響力を、一定の理念的な姿勢に訴えることを通じて獲得しようという試みなのです。先に、共同体を結束させるのは二つの事柄だと述べました。
暴力による強制と成員たちの感情の粋による拘束、術語を用いるならば同一化による一体感、です。

一方の契機が脱落してしまっても、もう一つの契機によって共同体は維持されるかもしれません。もちろん、先に述べた理念がなんらかの意味を持っのは、それらが成員にとって4共同体は維持されるかもしれません。もちろん、先に述べた理念がなんらかの意味を持っのは、それらが成員にとって重要な共通の関心に表現を与えている場合に限られます。そうなると、その理念がどれほど強固なものであるかが問われます。理念が実際に作用してきたのは、歴史が教えるところです。例えば汎ギリシャ的理念がそうです。自分たちはまわりに住む野蛮人よりも優れた存在であるという意識は、アンピクテイオン同盟や神託、祝祭制などの中に強力に表現されておりますが、この意識が強かったゆえに、ギリシャ人の間で戦争が行われた際には、その流儀も温和なものとなるほどでした。しかし、そうは言っても、ギリシャ民族に属する小部族間の軍事的な紛争を防止することはできませんでしたし、一つの都市や都市同盟が、どこかライバルに不利を及ぼすために宿敵ペルシャ人と同盟を結ぶのを妨げるほどの力もありませんでした。同じくまたキリスト教徒としての一体感も、それなりに強力なものであったとはいえ、ルネサンスの時代には、キリスト教を奉じる大小の国々が、互いの戦においてスルタンの支援を得るべく画策するのを妨げませんでした。私たちの時代にも、このように世の中を一つに束ねる権威を期待しうるか生まないことは、あまりに明白です。中には、ボルシェビキ的な考え方がまず広く一般に浸透することによって初めて、およそ戦争というものを終わらせることができると予言してみせる人もおりますが、いずれにいたしましてもこのような目標は、今日の私たちにとってあまりに迂遠であり、おそらく幾多の恐ろしい内乱の後でしか到達しえないでしょう。してみれば、やはり現実の権力を理念の力に置き換えようとする試みは、今日においてなお失敗に帰する定めにあるように思われます。法はその元を辿れば剥き出しの暴力による支えを欠かしえない。このことを考慮しないなら、とんだ計算違いをしでかすことになります。

さて、ここで、あなたが提起されている命題のうち別の一つに注釈をしてみたいと思います。あなたは人間を戦争に熱狂させることが実に容易であることを不思議に思っていらっしゃる。そして、人間のうちには、何か憎悪や載滅-の欲望といったものが作用しており、これがそのような煽動に迎合するのではないかと推測していらっしゃいます。ここでもまた、私は何の留保もつけずにご意見に賛同するほかありません。私たちはそのような欲動の存在を信じており、まさにここ数年間、この欲動がどう発現するかについて研究するべく努めてまいりました。この機会に、私たちが精神分析で幾多の模索と曲折の末に辿りついた欲動の一端をお話してよいでしょうか。
続く。


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戦争はなぜに?(フロイトの論文から抜粋)

2013.09.20 Friday[フロイト-

成員たちの感情の絆という拘束によって結束が保たれる一つのより大きな統一体に権力を委譲することによって、暴力は克服されるのだ、ということです。これ以外のことはすべて、その敷衍と反復にすぎません。共同体が、強さの点で互いに等しい何人かの個人から成るかぎり、事態は簡単です。そこでは、安全な共同生活が可能となるためには、個々の者が、自らの力を暴力として用いる個人的な自由をどの程度まで断念しなければならないかを、この結束した一団の法律が規定します。

しかし、このような平静な状態はただ理論的について不均一な要素を含み、そこへもってきて後にまた戦争と征服の結果として勝者と敗者が生まれ、さらにそれが主人と奴隷に転じるなどして、事態は複雑になります。そうしますと、共同体の法は、その只中にある不平等な権力関係の表現となり、法律は支配する者たちによって、また支配する者たちのために制圧され、服従者たちにはほとんど何の権利も認めなくなるでしょう。

この時より共同体の中には、法を動揺させると同時にまた法をさらに形成してゆく二つの源泉が存在することになります。第一に、支配者たちのうちの何人かは、万人に妥当する制約を乗り越えようとする、要するに法の支配から暴力の支配へ立ち返ろうとします。第二に、虐げられている者らは、今以上の権力を得ようとして、この変更を法律の中に明文化させようとする、要するに、先とは逆に不平等な法から万人にとって平等な法へと突き進もうと絶えず奮闘するのです。

様々の歴史的な契機の結果として権力関係に遷移が生じることがありますが、共同体の内部で実際にそういった遷移が起こる時、右の二つの流れか、あるいは、もっとよくあるのは、支配階級がこの変化に対応する準備ができておらず、暴動や内乱の発生に立ち至る、つまり、一時的に停止され、暴力による新たな力比べが起こり、それが終息すると、新たな法秩序が設立されることになります。なお法が変化するのに、もう一つ平和的な仕方でのみ現れる源泉があります。

それは、共同体の成員が文化的に変わることですが、これはもっと後でないと検討できない文脈に属する問題です見てのとおり要するに、従来、一つの共同体の内部においてでさえ、利害の衝突を暴力的に処置するのは避けられませんでした。しかし、同じ土地で共同生活を送ることから来る様々の必要や共通点は、闘争の速やかな終結を促します。このような条件のもとでなら、ことが平和裡に解決する確率は次第に増大しつつあります。しかし、人類史を眺めれば、そこに現れてくるのは絶えざる抗争の連鎖であります。

一つの共同体と別のまた一つの、あるいは複数の共同体との間に、大小の統一体の間に、すなわち、市街区域間、地域間、部族間、民族間、帝国間に起こるこれらの抗争は、ほとんど常に戦争という力比べによって片が付けられます。
このような戦争は結局、一方の側に対する略奪か完全なる制圧、ないし征服こ終わります。征服戦争を一律に評価することはできません。

モンゴル人やトルコ人の戦争のように征服戦争の中には災厄しかもたらさなかったものもありますが、逆に戦争のおかげで従来よりも大きな統一体が生まれ、この中ではもはや暴力を行使するという方策は取られなくなり、新たな法秩序が抗争を調停することによって暴力を法へと転換させることに貢献した戦争もありました。例えばローマ人による征服は、地中海諸国に貴重な(ローマ平和)をもたらしました。フランスの歴代の王たちが抱いた領土拡大の野望は、平和的に統一された、繁栄するフランスを創り出しました。

いかにも逆説的に響きますが、戦争は、強大な中央権力によって内部でのそれ以上の戦争が不可能となるよう強大な統一体を創り出すことができるがゆえに、人々の待望する(永遠の)平和を打ち立てるための手段として不適格ではないというのは認めなければなりません。とはゆえ、戦争はやはり平和樹立の役には立ちません。
征服の成果は、必ずや長続きしないからです。新たに創られた統一体は再び瓦解してゆきます。大概は、暴力的に統一された各部分を結束させることができなかったからです。

加えて、征服が従来、創り出した統一体は、なるほどその規範が広がったとはゆえ、所詮、部分的な統一体でしかなく、それらの間の抗争はこれまでにもまして暴力的な決着を招き寄せることになったのです。そういった好戦的な尽力を積み重ねてきた結果、人類は、数が多いばかりか絶え間のなかった小規模な戦争の代わりに、稀ではあるがそれだけ大きな荒廃を生む大規模な戦争にしたに過ぎないというわけです。

続く。


如月eye
フロイトの鑑識眼も伺わせる内容ともいえる、歴史や哲学のにも豊富な知識を鑑みて因果関係や自らの精神分析を照らし合わせて述べています。


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戦争はなぜに?(フロイトの論文から抜粋)

2013.09.19 Thursday[フロイト-

フロイトは実に戦争を嫌い、戦争がなぜ起きるのか?人間が戦争を起こす原因などを鋭くまず人間の本能や人間の精神分析をしている。如月自身、人間フロイトの暖かい面を見るにあたって感銘を受けた次第です。

では本文より、

アインシュタイン様。
あなたはご自身関心を寄せられて、他の人々も関心を払うにふさわしいとお考えになっているテーマについて、私に意見交換を求めたいとのご主旨伺いましたときには、二つの返事で承諾致しました。私としては、あんたがお選びになるのは、きっと今日の人知の限界に位置するような問題であって、私たち二人が物理学者、心理学者として、それぞれ独自にそこに追ってゆくことができ、それぞれが異なる方向から出発しながら最終的に同じ一つの土俵の上で出会えることになるような問題なのだろう。と期待いたしました。ところが、その後、あなたが、戦争という災厄から人間を守るために何ができるのかという問いを提起されたのには意表を突かれました。

私にはほとんど(私たちには)と言ってしまうところでした。このような問いに答える機能がないという気がしてひるんだのです。こういったことは政治家たちに任せるべき実践的な課題ではないかと感じたからです。しかし私はほどなく、あなたが自然研究者、物理学者としてこの問いを提起されたのではなく、ちょうど極地探検家フリチョフ・ナンセンが、飢餓に苦しむ人々や故郷を追われた世界大戦の犠牲者を教授するのを自らの責務としたように、国際連盟の呼びかけに応えるひとりの博愛家として、この問いを提起されたのだと理解いたしました。さらに、自分は何も実践的な提案を出すのを求められているのではなく、単に心理学の立場から考察するなら、戦争を防止するという問題はどのような様相を呈するかを述べるが期待されているだけだ、と思い直した次第です。

しかし、このことについてもお手紙ではほとんどのことが尽くされています。おかげで私は、いわば帆走しようにもそのための風を奪われた状態です。しかしここはひとつあなたの航跡を辿り、お手紙で提起されていることすべてを、私の持つ限りの知識、ないしは推測を起こして敷衍することで、微力ながらその見地の正しさを裏付けてみたいと思います。

あなたは最初に法と権力の関係を取り上げていらっしゃいます。これはたしかに私たちの考察にとって正しい出発点です。「権力」という言葉を、もっと強烈で非常な言葉である「暴力」に置き換えていいでしょうか。法と暴力とは、今日の私たちにとって互いに対立するものであります。しかし、一方が他方から生まれたことを示すのはたやすいことですし、私たちがそもそも始原に立ち戻り、これが当初いかに生じたのかを確かめれば、問題の解決とてたやすいはずです。しかし、以下で誰もが認める周知のことを、あたかも何か目新しいことであるかのように私が語るのをお許しください。文脈上、どうしてもそうせざるを得ないのです。

人間相合のあいだの利害の衝突は、原理的には暴力の行使によって決着がつけられます。動物界でも同じで、人間は自分がこの一部であることを自覚すべきです。ただし、人間にはさらにまた意見の衝突というものもあり、これは最高度の抽象の高みにまで達するだけに、決着をつけるにも暴力とは違う技法が必要とされるようです。しかし、このような事態の複雑化は後から起こったことです。当初、小規模な人間群族では、何か誰のものであるか、誰の意図が実行に移されるべきかは、どちらの腕力が強いかによって決定されました。腕力は、間もなく道具の使用によって強化されるとともに、やがてこれに取って代わられることになります。人より優れた武器を持つ者、あるいは人より武器を巧みに使いこなす者が勝利するのです。

すでに武器の導入によって、知力の優劣が、かつて剥き出しの腕力が占めていた位置を占めはじめることになるのですが、闘いの最終的な目的はあくまで同じです。どちらか一方が、自分の被る損害によって、また力の衰退によって自らの要求や異論を破棄させられるのです。これは、暴力が相手を永続的に除去するとき、すなわち殺してしまうときに、最も徹底したかたちで達成されることになります。これには二つの利点があります。

まず、負けた相手が再び敵対してくることはないこと、そして彼の運命が見せしめとなって他の者たちは彼の失敗を繰り返すまいとするようになるのです。さらに敵の殺害は、一つの欲動的な傾向を満足させますが、これについてはのちに触れなくてはなりません。殺害という意図に立ちはだかることになるのだが、敵を委縮させたまま生かしておけば、何か役に立つ仕事に利用することができるという発想です。こうなると、暴力は、敵を殺す代わりに服従させるのをもって満足することになります。これが敵に対する容赦の始まりですが、一方では、勝者はこれ以後、敗者の内に潜む復讐心を考慮に入れなければならなくなり、自分自身の安全の一部を破棄しることになります。

要するに、これがもともとの状態、権力の大きな者による支配、剥き出しであるか、知力の支えがあるかはひとまず借いて、暴力による支配です。私たちは、このような政体が発展の過程で変化してきたことを知っています。暴力から法に通じる道があったのです。しかし、どのような道だったのでしょうか。唯一これを借いてほかにない、そんな道だったと私は考えています。

それは、ある一人の者の強大な力によって複数の弱者たちの一致団結が対抗することができたいう事実を経て進んでゆく道だったのです。 (団結は力なり)です。暴力は団結によって打破され、この団結した者たちの権力が、一転、個人の暴力に対抗して法となって現れるのです。ここに見られるように、法とは一つの共同体に逆らう個人が出てくれば、いつでもそれに対抗する用意ができており、暴力と同じ目的を追求します。実際のところ違いは、言い分を押し通すのが、個人の暴力ではなく、共同体の暴力であるという点に尽きます。しかし、暴力から新たな法-の移行が執り行われるためには、ある心理学的な条件が満たされなければなりません多数者の団結は堅固で持続的なものでなければならないのです。

仮にこの団結が、そのただ一人の強大な権力者を打倒するためだけに結成され、彼を制圧した後に瓦解してしまったなら、成果は何一つなかったことになるでしょう。他の者に勝るとして自らの力を恃む次の者が再び暴力による支配を目指し、角遂は永遠に繰り返されることになります。共同体は永続的に維持され、組織化されねばならず、懸念される反乱を予防するための規則を作成し、この規則、遵守を監視し法に則った暴力行為の執行を担当する機関を設置しなくてはいけません。このような利害の共同体を承認することで、団結した人間集団の成員たちの間に互いを拘束しあう感情の絆、共同感情が出来上がってきます。
共同体の本来の力は、この感情によるものなのです。
以上でもってすでに本質的なところはすべて出そろったかと思われます。

続く。

この続きは最後までアインシュタインに書いた戦争はなぜに?をここで全部紹介します。
戦争や争いを社会心理としても内容深く、分析しています。
後半には人間の本能も記しており、実に興味深い。アインシュタインはこの手紙をどう受け止めたかも気になるところですが‥.


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パーソナル障害の分類

2013.09.17 Tuesday[パーソナル障害-

DSM−犬任錬隠阿離織ぅ廚吠類されている。
1、妄想性(他人の動機を悪意のあるものと解釈するといった、不信と疑い深さの様式)
2、シゾイド(社会的関係から遊離及び感情表現の範囲の限定の様式)
3、失調性(親密な関係で急に不快になること、認知的または知覚的歪曲、および行動の奇妙さの様式)
4、反社会性(他人の権利を無視しそれを侵害する様式)
5、境界性(対人関係、自己像、感情の不安定および著しい衝撃性の様式)
6、演技性(過度な情動的と人の注意を引こうとする様式)
7、自己愛性(誇大性、賞賛されたいという欲求、および共感の欠如)
8、回避性(社会的制止、不適切感、および否定的評価に対する過敏性の様式)
9、依存性(世話をされたいという全般的で過剰な欲求のために従属的でしがみつく行動を取る様式)
10、強迫性(秩序、完全主義、および統制にとらわれている様式)

しかし、現在ではこうしたカテゴリー分類の妥当性について疑問視する意見もある。ここに挙げたカテゴリーでは、人間のパーソナリティを十分に表現しきれないという指摘である。そのために、最近では、いくつかの性格傾向の軸を用いてパーソナリティを表現する(デメンション分類)の有用性が提唱され、遺伝学的にもその妥当性が実証されてきている。

その代表的なものとしては、コスタとマレーなどが提唱している神経質、外向性、開拓性、愛想の良さ、誠実さの5因子モデルと、クロニンジャーが提唱している新奇性追求、損害回避、報酬依存、固執の気質の4因子と、自己志向、協調、自己超越、の3因子をあわせた7因子モデルがよく知られている。


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心のくすり箱

2013.09.13 Friday[うつ病-

国際医療福祉大学医療福祉学部教授
監修、上島国利先生。

体調不良が続いているご家族や周囲の方へのアドバイス。
※上手なサポートの仕方。
不安を広げないように声をかける。
受診を勧めるときは、受け入れやすい言葉を選んで声をかけます。(うつ病)(病気)という言葉を使わずに、「疲れ」などと言い換え、提案するような言い回しにしましょう。

※なぜ?と病気の原因探しをしない。
うつ病だとわかると、「なぜ病気になったのか」と、とかく原因探しをしがちです。しかし、実際にはさまざまな原因が関係していて、特定できないことがほとんどです。病気の原因探しをするよりも、ご家族は、「どうすれば良くなるか」を考えるようにして下さい。うつ病を治すには、周囲のサポートが不可欠です。

※周囲の方のバックアップが必要。
うつ病の治療には、周囲の方々の支えが必要です。
励まさない。
うつ病の人に「頑張って!」と励ますのは逆効果になります。決して怠けているのではなく、今はがんばりたくても頑張れないことを理解して下さい。今までと態度を変えず、普通に接することが患者さんの安心につながります。

※考えや決断を求めない。
決断を求めないようにします。「今日は何を食べたい?」と聞かれたときに、「何でもいい」と答えると、うつ病の人は考えなければならなくなります。それよりも、「カレーがいい」などと具体的に答えて負担を減らしてください。

無理に外出や運動は、健康な人にとっては気分転換になります。しかし、うつ病の人にとっては、外出や運動、お酒の席も負担になる場合がありますので、無理に勧めてはいけません。

※重要な決断は先延ばしに。
金額の高い買い物、引っ越しなど、大事なことを決定するのはストレスになります。できることなら、決定は病気が治ってからしましょう。

※ 日常生活の負担を減らす。
家事が負担になっていることがあります。「食事はつくらなくていいよ」「ワイシャツはクリーニングに出して」など家事の負担を減らしてください。



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お知らせ

2013.09.12 Thursday[お知らせcomments (0)

10月3日からIZAMの何でもカウンセリングがはじまり、そして引き続き4月からもFMbayからも如月とIZAMの何でもカウンセリングがはじまることになっています!
関東と関西地方の両局でのスタートとなります!
見逃すな!!

来談者中心療法について

2013.09.11 Wednesday[カウンセリング-

ロジャーズが創始者ですが、カウンセリングにおいて、クライエントのパーソナリティが変化するための条件を6つ挙げている。

1、心理的な関係の成立。
2、来談者は自己不一致の状態であり、傷付きやすいのか、不安である。
3、セラピストは自己一致している。(純粋)
4、セラピストは、来談者に対して無条件肯定的関心を持つ。(受容)
5、セラピストは、来談者への共感的理解を経験している。
6、セラピストは受容と共感が来談者に伝達されている。

3、4、5.はセラピストの3条件。


如月の解釈。
覚えているだけで、実際のケースに当てはまらないことも多く、実践に欠けている。否、何もなっていないのは、如何に?始めから資質を無視しているからである。理論ばかではどうもならない。よく見かけるセラピストは。

特に3は言葉と意味だけ理解していて、いざとなると有効に働かないのはとても悲し
いことです。


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