収録後
この前の放送で17日ですが、文月メイさんのママという曲を流しました。
私自身、すごい内容があり、意味のある曲という紹介と絶賛をした次第です。
まるで、あのカレン.カーペンターズを彷彿させるぐらいのメロディとその深い
メッセージ性にとても共感し、感動しています。
そして次週で放送される文月さんからのコメントを頂き、心から感謝しています。
これからも応援していますので、また素晴らしい音楽作りを期待しております!

この前の放送で17日ですが、文月メイさんのママという曲を流しました。
私自身、すごい内容があり、意味のある曲という紹介と絶賛をした次第です。
まるで、あのカレン.カーペンターズを彷彿させるぐらいのメロディとその深い
メッセージ性にとても共感し、感動しています。
そして次週で放送される文月さんからのコメントを頂き、心から感謝しています。
これからも応援していますので、また素晴らしい音楽作りを期待しております!

物質の構成要素である素粒子とそこに働く力を述べる現代の素粒子理論を標準理論と呼ぶ。
この理論は、素粒子が関係するあらゆる実験事実を見事に説明する素晴らしい理論ではあ
るが、1つだけ盲点があった。それは、理論の中に登場するヒッグス粒子が仮定されている
ことだった。
標準理論は、ゲージ対称性という、物理学の中では最も普遍的な原理を出発点にしている。
ゲージ対称性については後段で詳しく説明になりますが、重要なととに、それが粒子の質量
(重さ)がゼロであることを要求している点だ。標準理論が素粒子の基本理論となりうるこ
とためには、粒子の質量はぜロでなければならない。しかし、現実の素粒子は質量をもって
いる。標準理論がゲージ対称性を満たしながら、且つ素粒子の質量を説明できる実行性のあ
る理論でありたいと。
この要求を成立させるために仮定されたのが、ヒッグス機構(ヒッグスメカニズム)である。
つまり、標準理論正しい理論であるならば、ゲージ対称性を満たしつつ粒子に質量を与えな
ければならず、そのためにはヒッグス粒子の発見によってヒッグスメカニズムを仮説の燦
から引きずり下ろす必要があった。
2011年7月4日。
ヒッグス粒子と見られる粒子が、ついに欧州原子核研究機構(CERN)で発見された。
標準理論は、信頼ある基本理論止して確立したのだ。
続く
1、不安については、これまでの一連の講義の第25回目ですでに、テーマにとりあげました。とりあえず、その内容をかいつまんで振り返っておく必要があります。そこで述べましたのはまず、不安とは、一つの情動状態、つまり、快、不快の系列のある度合いの感覚と、この感覚に見合った放散のための神経支配ならびにその感知とが一つになった状態のことをさすのですが、おそらくは、何らかの重大な出来事が遺伝を通じて体内化された澱のようなもので、喩えるなら、各人それぞれが獲得したヒステリー発作にでも匹敵するだろう、といったことでした。私たちは、この種の情動痕跡を残した重大な出来事として、出産という出来事をつけました。
不安に特有の心拍と呼吸の変動は、もともと出産の際にこそ目的にかなったものだったからです。つまり、原初の不安というものは、何か中毒性のものだったのだろうということです。こうした前提のもと、私たちはまず、現実不安と神経症的不安を区別することから出発しました。前者の現実不安は、危険に対する反応、すなわち予期された外部からの侵害に対する反応として、すんなり理解できるのですが、後者の神経症的不安は、いかにも謎めいていて、何のためのものか分からないものです。私たちは、現実不安を分析してこれを感覚的注意力と運動緊張の高まった状態として結論づけ、この状態を不安準備と呼びならわします。この不安準備が不安反応へと発展してゆくわけですが、この不安反応の結末には二種類のものがあります。一つは、あの古い外傷的体験の反復である不安増長が、いわば信号としてのみ働く場所で、その場合には、それ以外の反応は、危険状況が新たに膨らんでくるのに合わせて、逃亡や防御の手を打つといった結末にいたります。
もう一つはあの古い外傷体験が圧倒的になり、反応全体が不安増長で尽きてしまう場合には、この情動状態は、全身の力を萎えさてしまうため、逆に現在の状況にとってよろしくない結果となってしまうのです。つづいて私たちは、神経症的不安に目を向け、これには三つの異なった事態が観察されることをご報告いたしました。一つは、自由に浮揚しどんなものにも向けられる危惧で、新たに浮上してくるどんな可能性とも次々手当たり次第に結びつくため、いわゆる予期不安と称するべきもので、例えば典型的な不安神経症に見られる類いのものです。もう一つは、いわゆる恐怖症にみられる、特定の表象内容にしか結びついた不安でして、この場合、外的危険とのある種の結びつきはなんとか認められはしますものの、これに対する不安が度を越えて誇張されているとしか思えません。最後の三つ目は、ヒステリーや他の形態の重度の神経症に見られる不安で、もろもろの症状にともなって現れる場合も、単独で現れるもあり、発作の形をとるかと思えば、慢性的な形をとったりもしますが、いずれの場合も、何らかの外的危険によってもはっきり理由づけることができない点を特徴とするものです。
このように見てきた結果、私たちとしましては、次のような二つの問いを提起せざるをえなくなったわけです。すなわち、これら神経症的不安は、外的危険に向けられた現実不安とどういう関係にあるのかという問いです。
私たちの研究は決して無駄には終わりませんでした。重要な解明がいくつか手に入りました。不安に満ちた予期に関しましては、臨床上の経験から、これがいつも性生活におけるリビード家政に関係していることが判いたしました。つまり、不安神経症のもっとも普通の原因は、フラストレーションに終わった興奮だということです。リビードの興奮が引き起こされても、それが満足させられず、使用もされないような場合、この使用に供されなかったリビードに代わって、びくびくした不安感が出現するわけです。私には、この充足させられなかったリビードがそのまま直接不安に変化すると言い切ってよいとも思えたほどです。
これら子供の恐怖症というものは、私たちには極めて謎めいたものが多いのですが、そうではなような恐怖感、例えば一人きりにされた時の不安だとか人見知りのような不安は、はっきり説明が可能なのです。つまり、一人きりにされたり、見知らぬ顔が現われたりしますと、それによって幼児は、親しんだ母親への切ない思いを掻き立てられ、このリビード興奮を抑えることも浮揚したままにしておくこともできないで、これを不安に変えるということです。この幼児不安は、したがって、現実不安に属するものではなく、神経症的不安の一つということです。この幼児期恐怖症、ならびに不安神経症の不安予期は、神経症的が生じる一つの方式を説明する二つの好例とも言えます。すなわち、リビードが不安へと直接的に変換されることによるということです。神経症的不安のもう一つの規制も、すぐにい知れます。それは、この第一の規制とさほど違ってはいないのです。
私たちは、ヒステリーやその他の神経症に見られる不安は、抑うつという出来事によるものだと考えております。この抑圧という出来事を、これまでよりも完全な形で記述するには、抑圧されるべき表象の運命と、その表象に付着しているリビード量の運命を別々に切り離して扱う必要があります。抑圧を受けて、ともすると見分けがつかなくなるほど歪曲されるのは、表象の方です。これに対して、表象がもっている情動量のほうは、不安に変わるのが通例です。しかも、その情動の種類が攻撃的なものであれ、そうしたこととは無関係に、情動量は不安に変わるのです。加えて、あるリビード量がどのような理由で使用されないままになったのかということも、本質的な違いを作りません。幼児期恐怖症の場合のように自我の幼児期的な弱さからくるのであれ、不安神経症の場合のように性生活における肉体的出来事(リビード鬱積)の結果であれ、あるいは、ヒステリーの場合のように抑圧によるのであれ、本質的な違いはありません。つまり、神経症的不安の発生の二つの機制は、もともと同じだということなのです。
このような探求を続けている中で、私たちは、不安増長と症状形成の間に極めて重要な関係があることに注意を向けるようになりました。すなわち、両者は互いに代行しあい、交代しあうということです。例えば広場恐怖症患者の場合ですと、その一目瞭然病歴の開始点にくるのは、路上での不安発作です。再び路上に出ようものなら、その度に、この発作が繰り返されることになりかねません。そこで患者は、自我による制止ないしは自我による機能制限とも呼ぶことのできる路上不安という症状(広場恐怖症)を形成し、それによって不安発作を逃れるのわけです。これとは逆のことも見られます。例えば強迫行為などの際によく起こることですが、症状形成に何らかの干渉が加えられたような場合がそうです。
洗浄儀式を行うのを妨げたりしますと、患者は耐え難い不安状態に陥るのです。ここからはっきりしますのは、それまで症状が患者をこうした不安状態にならないように守っていたということです。付け加えさせていただきますと、どうやら、不安増長のほう先、症状形成が後であるらしく、不安状態の勃発を回避するために症状が形成されるようなのです。幼児期に起こる最初の神経症であるという事実も、このことを裏付けております。この幼児期の恐怖症の状態を見れば、先にまず不安増長があって、これが後に症状形成にとって代わられることは人目瞭然なのです。
続く。
如月eye
神経症に大きな功績を遺したフロイトの神経症への研究は、現在もその分野では生きていますが、ここまで内側からアプローチできたのは、天才しか他ないでしょう。
ここでいうリビード、現在はリビドーとも名づけられています。
不安と欲動生活はまだまだ続きます。
長編。
科学はなぜ?と疑問形から生じて発展していく。
どんな分野においても疑問を持ち、発展をすることで、いろんな事が解明していく。
人間の見える範囲がマクロなら見えないもは何?となる。
真空に、宇宙や物質の起源が解明できるヒントがあると言われ研究されている。
リンゴが木から落ちるのを見たニュートンは万有引力の法則を打ち立てた。
ニュートン力学では、空間座標、時間、質量の3つからなる物理量が用いられる。
空間、時間、質量は絶対的な量であり、その起源は変わらないとしている。
ニュートン力学から、越える事実が真空と質量に関係する事実があり、
質量に対してどのようにして作られるかと研究し、根源的なもの!
ヒッグス粒子に違いないと研究されることになったのである。
続く

この過程が何を機縁にどのように始まったのかは不明ですし、その末も不確かですが、この過程の性格のいくつかについてはたやすく見て取れます。このまま行くと、ひょっとすると人間という種は消滅するかもしれません。というのも、この過程は性的な機能をいくつかの点で損なっており、すでに今日でも、文化的に進んでいない人種や、社会の中で遅れている住民層のほうが、文化度が高い人間たちよりも旺盛に人口を増加させているからです。もしかするとこの過程は特定の動物種家畜化に比べることができるかもしれません。
この過程には身体的変化が伴うのは疑いないところです。文化の発展がこのような気質面での変化の過程だ、という発想にまだ世の中は馴染みがありません。文化の発展に伴う心的な変化は顕著で、紛れもない事実です。この変化とは、欲動の目的の遷移がどんどん進行していって、欲動の轟きが制限されることにあります。私たちの祖先にとっで快に満ちていた感覚は、私たちにはどうでもいいものか、ないしは耐えがたいものにさえなりました。私たちの倫理的、ないし美的な理想要求が変化したのなら、それには器質面での根拠があるのです。
文化の心理学的な性格のうち二つが最も重要であるように思われます。まず欲動の活動を支配し始める知性が強まること、それと攻撃的な傾向性の内面化です。後者には、有用な帰結も危険な帰結も多々伴います。さて、文化の過程が私たちに強いる心理的な態度に真っ向から楯突くのが戦争です。だからこそ私たちにはもはやそもそもできなくなっています。それは単に知的で情動的な拒否ではありません。それは私たち平和主義にあたっては、器質的な不寛容であって、一つの特異体質がいわば極端に肥大化したものなのです。また、残虐であるのに加えて、戦争が美的な観点からしてこき下ろされているのも、私たちが戦争に反発を覚える大きな理由の一つではないかと思われます。
さて、私たちは他の人々も平和主義者になるまで、この先どれぐらい待たねばならないのでしょうか。それは何とも言えません。しかし、文化的な態度と、将来の戦争が及ぼす影響に対する当然の不安、これら二つの契機が働いて、近いうちに戦争遂行に終止符が打たれるであろうというのは、ひょっとすればユートピア的な希望ではないかもしれません。どのような道を経て、あるいは回り道を経てそれが実現するのかは、私たちは推し量ることができません、にも関わらず、文化の発展を促すものはすべて、戦争に立ち向かうことにもなるのだと言えます。心からのご挨拶をお送りしますとともに、私が述べてきたことがご期待に添えませんでしたらどうぞ、ご海容のほどお願いあげます。
如月eye
戦争はなぜに?をアインシュタインに送った手紙でした。
フロイトの考える器質的なもの。一つの得意体質が肥大化したもの。と述べているところはいわばどうにもならないものでしょうか。現在は第二次世界大戦も終わり68年ぐらいになる。その他の国で内乱やテロなどが起きてはいるが、大小は別にして湾岸戦争が記憶に新しい。文化的な態度と戦争が及ぼす当然の不安の二つの契機が働いて終止符が打たれるのかもと述べているところ、誰にしも死というものに対しては不安はありそれが正義のためとかわけのわからない大義名分のために争う愚かな行為。そして文化的な態度。あくまで何々的、的。文化の発展そのものは悪くない、しかし、どのようにしてそのプロセスを大切にするかが問題なのです。
日本においても電子toolが発展し、その言葉の意味や重さスピード、利便性、コミュニティ等。多くの障害も出ているのも事実。それはほんの一端ですが、またいろんなことができることでその反撥やデメリットも生ずるので、その最悪が戦争というものでしょう。
文化の発展に伴い、人間らしい生き方や考えをまさに一石を投じるフロイトのこの論文と言えます。

御関心の所在は戦争の防止であって私たちの理論ではないのが分かっていながら、無理やりそこに自分の話をこじつけているのではないかと案じます。なおしばしの間、破壊欲動の話を続けさせて下さい。破壊欲動は、よく話題になるものの、その意味の解明はそれに足並みをそろえることが到底できていません。私たちは、いくらか思弁を重ねることを通じて、この欲動が生あるものすべての内に働いており、さらに、その生体を崩壊に至らせ、生なき物質の状態に連れ戻そうという志向を備えているという見解に至ったのです。
この欲動は、文字どおり死の欲動という名に値します。それに対してエロース的な欲動群は、生への意欲を代表しています。死の欲動は、特別な器官の助けを借りて外部へ、対象へ向けられると、破壊欲動となります。生物はいわば異物を破壊することによって自分自身の生を維持します。しかし、死の欲動の一定部分は生物の内部に残存し働きつづけます。私たちは相当数の正常な現象や病的な現象をこの破壊欲動の内面化から導き出すことを試みました。良心の成立を、攻撃性が内部へと向けらことから説明するという異端に手を染めさえしました。お察しのとおり、この現象があまりに大規模に行われると、まったく危なげないとは言えません。
端的に不健全であります。他方、欲動の諸力が外界での破壊へと向けられるのは、生物にとって負担を軽減することになり、憂さ晴らしの効果もあるに違いありません。私たちは今、人間の中にある醜く危険な志向全般についての生物学的な弁解となるでしょう。このような志向のほうが、それに対する私たちの抵抗よりも自然本性に近いというのは認めざるをえませんし、また、なぜ、自分たちはこういった抵抗をするのかについても、私たちは説明を見出さねばなりません。もしかするとあなたは、私たちの理論が一種の神話だ、しかも神話であるにしてもいささかも悦ばしい神話ですらない、という印象をお待ちかもしれません。しかし、すべての神話科学は最終的にこのようなある種の神話に行き着くのではないでしょうか。今日、あなたがたの物理学では事情は異なるでしょうか。
以上に述べてきたことから、私たちは自分たちのあたっての目的のために、とりあえず人間の攻撃的な傾向を廃絶しようと望んでも見込みがないということを引き出しておきましょう。なんでも地上には幸せな地域があって、そこでは自然が、人間の必要とするものならすべて溢れるほど豊富に与えてくれ、そこに住む種族の生活は温和に過ぎ行き、強制も攻撃も知らないのだそうです。そのようなことはおよそ信じることはできませんが、この幸福な人々についてはもっと話を聞きたいものです。ボルシェビキの面々もまた、物質的な欲求を満足させることを保証し、その他の点でも共同体に参加する者たちの間に平等を打ち立てることによって、人間の攻撃性を消滅させることができると希望しています。
私はこれを錯覚だと考えます。当面、彼らは、はなはだ念入りに武装しておりますし、自分たちの支持者を結束させるのにも、外部の者すべてに対する憎悪に頼るところが少なからずありません。ちなみに、ご自身でもお気づきのように、ここではなにも人間が持つ攻撃への傾向性をすっかり除去しようというのではありません。せいぜい試みうることといえば、それをなるべく別の方向に誘導して、攻撃への傾向性が戦争で表現される必要がないようにすることくらいです。
私たちの神話的な欲動理論から、間接的に戦争というものを打ち倒す方法の指標となる言葉がたやすく見つかります。好んで戦争へと向かう態度が破壊欲動の発奮ならば、この欲動に対処するには、それに対立する存在たるエロースに声をかけるというが当然、考えられるところです。何であれ、人間の間に感情の絆による拘束を生み出すものは、すべて戦争に逆らうはずです。もっとも、これには性的な目標が伴うわけではありません。精神分析は、ここで愛と言う言葉を使うのを恥じる必要はありません。宗教が同じことを言っているからです。いわく、汝自身のように汝の隣人を愛せよ。これはただ、言うは易し、行うは難し、です。
もうひとつの類いの感情の絆による拘束は、同一化による一体感です。人間の間に重要な共通の関心を生み出すものはすべて、このような共同性の感情、同一化による一体感を喚起します。人間社会は、大概のところこういった感情と同一化の上に打ち立てられているのです。
あなたが権威の乱用を嘆かわしいと述べておられるお言葉から、戦争の傾く性向を間接的に打ち倒すためのもう一つの示唆が得られます。人間は、生まれながらにして指導する者と従属する者とに分かれますが、この不平等を取り除くことはできません。大半は従属する者であり、自分たちに代わって様々な決定を下してくれる権威を必要とし、ひとたび下された判断には、大抵無条件に従います。これに連関する話ですが、自立していない大衆の統率を担うべき自立して考える人間、威嚇に屈さず真理と格闘する人間から成る上層部を育成するために、これまで以上に意を用いる必要があるでしょう。国家権力による干渉や教会による思想の禁圧は、このような訓育に不都合であるのは論を埃ちません。
理想的な状況は、もちろん、自らの欲動生活を理性の独裁に服従させた人間たちの共同体でありましょう。これほどに完全で抵抗力を持つ、人間の結束を呼び起こしうるものは他にはないはずです。たとえ互いの感情の絆による拘束を断念しても、それには及ばすまい。しかし、これはどうやら九分九厘、ユートピア的な希望と見て間違いありません。間接的に戦争を回避するには、別の方法を取るほうが現実的
でありますが、それとてすみやかな成功を約束してくれるものではありません。粉挽き小屋の水車がやたらゆっくり回るものだから、待たされる人間は粉が挽きあがる前に飢えて死ぬ、などというのは、考えるだにいやじゃありませんか。
ご覧のとおり、浮世離れした理論家に喫緊の実践的な課題について相談しても、ろくなものが出てきません。人は、各自、いま手許にある手段でもって、それぞれ個別に危機に対処するように努めるほうがいいのです。しかし、私の関心を引く問いを一つ論じたいと思います。なぜ私たちは戦争に対してこれほどにも憤慨するのでしょうか。あなたも私も、その他、多くの人々もそうですが、なぜ私たちは人生の数ある辛い窮境の何かほかの一つのように、戦争を耐え忍ばないのでしょうか。そもそも戦争というものは自然の道理に適い、生物学的にも歴とした基礎を持ち、実際面ではほとんど避けられそうにもありません。
私の問題提起に驚かないで下さい。考察を目的とする以上、実際に持っているわけでもない超然の士の仮面をつけることとて許されるかもしれません。右の問いに対する答えは次のようなものでしょう。いわく、なぜなら、人間は誰しも自分自身の生にこだわりそれを処する権利を持つからであり、また戦争は希望に満ちた人生を破壊させ、個々人をその尊厳を辱めるような状態に追いやり、彼らをして、望んだわけでもないのに他人を殺害するように無理強いし、人間の労働によってもたらされた成果である貴重な財貨を破壊するからだ。そればかりではない。例えば、戦争も現代のような形態になると、昔の英雄的な理想を充足する機会を与えてくれないし、また将来の戦争は、破壊手段が完成し、敵対する陣営の一方だけではなく、もしかすると双方の側もろともの根拠を意味することになるだろう...。
これらはすべてそのとおりで、およそ議論の余地がないように思われ、いまだに、挙げて人類が一致して戦争に遂行を棄却していないのを不思議に思うほかありません。確かにこれらの点の内個々については議論することができましょう。共同体が個々人の生を処する権利を持つべきではないかどうかは疑問です。またあらゆる類いの戦争を一律に弾劾するわけにはいきません。折あらば容赦なく他を殲滅するつもりでいる帝国や国が存在する以上、他の国々としては戦争に備えて装備を整えておかなければなりません。しかし、これらはひとまず全て脇に置いて置きましょう。
あなたからお誘いを受けたのは、こういった議論ではないからです。私が目指しているのは別のことです。なぜ私たちが戦争に対して憤慨するのか、その主たる理由は、他になすすべがないからです。だとすると、私たちが自らの立ちの正当性を論証するのはたやすいことです。太古の昔から人類には文化の発展過程が連綿と続いている(このようでいられることのうちその最良の部分はこの過程のおかげだが、われわれを苦しめるものの大部分もやはりこの過程の所産である...。
続く。
如月eye
第一次世界大戦を経験しその最中でのフロイトの冷静な鑑識眼と客観性、その大戦中の心境はかなり複雑だったのだろうと思われます。今やほとんどの学者や今を生きる現代人にとって知識しか得ることのできない、歴史だけが残るのだけだが、人間の精神分析を研究する中で痛いほど戦争の愚かさや後世にも言い伝えなければならない、何か使命感としても医者として心理学者として熱い想いが伝わってきます。フロイトの偉大な功績は数えきれない。
続きはいよいよクライマックスになります。
